2006年01月01日

地方防災というオルタナ

地方防災というオルタナティブ


 「大規模な防災訓練を実施するよりも、地域ごとの実状にあわせた小規模な地域防災訓練の方が、費用対効果の面でも、実践的訓練としても遙かに有効ではないのか。」


 これは、今年の三月定例議会で、地域防災について質問をおこなった時の文言である。ここでいう「地域防災」という考え方は、かの阪神・淡路大震災の教訓から生まれてきた考え方のひとつである。


 例えば首都圏のベットタウンに当たる市街地で、大規模な地震に見舞われ、同時多発火災や家屋の倒壊が起きたことを想定してみよう。交通が遮断される状況の下で、限られた物資、人員で被害を最小限にくいとめるためには、住民自身が「自分で自分を守る」ための備えをしておくことがなにより有効である。


 さらに災害時の状況によっても、救助のあり方は変わってくる。夜間なら、警察、消防、市職員の配置など初動の救助体制を組むことに遅れが生じる。平日の昼間なら、在住人口は少なく、子供や高齢者が多くなる。こうした状況の変化にあわせて「住民相互の助け合い」を可能なものにしていく、そうした自主防災的な研究やシュミレーションは必要ではないのか。


 こんな問題意識から、今年の1月17日、私の住む地域で地域防災訓練がはじめて実施され私もそれに参加した。


 対象となった地域の人口規模はおよそ約三千人。公民館を中心に三つの町会の範囲から、周辺に居住する市職員、消防団員の集合訓練や、それぞれの役割確認をおこなった。さらに地域の企業や障害者団体などにも参加してもらい、訓練は百八十一名でおこなわれた。


 各町会ごとに集合した住民は、消火訓練、簡易担保づくり、人工呼吸、さらに倒壊家屋からの救助訓練などを受けた。この点が今までと大きく違う点なのだが、防災訓練といえば、従来は警察消防の部隊訓練や指揮系統確認が主な項目であり、住民の参加は避難誘導か、せいぜい家庭での火元確認の方法などに限られていた。実際に目の前で災害が発生して、自分が何かをおこなうという訓練は、参加してみてずっとおもしろかった。


 もちろん集合場所となっている公民館への避難誘導もおこない、一方で住民の安否確認の手法を確認していった。また集合地点ではNTTの「災害伝言ダイヤル」を使ったシュミレーションもおこなわれた。折しも関東地方は小雨から雪に変わる悪天候の日であったので、訓練は臨場感もあり、参加した住民からも大変好評を得たのである。
 質問の話に戻ろう。


 「費用はどの程度かかったのか」「すべて町会費、消防署それぞれの費用でまかなわれておりますので、市としては費用をかけておりません」。


 「今後同様の訓練を拡大していく計画はあるか」「消防団、消防署の負担を考慮すると一年度内に複数箇所でおこなうことは難しいと思われます」。


 こちらが金がかからず、効果があるのだからもっとやれといっているのに、市としては費用をかけていないけれど、その分消防署の負担になるので、そう何度もはできないとこの答弁者はいいたいのである。うまい逃げ方をするなあ・・。


 ここで冒頭の質問。「大規模訓練(といってもこの場合は2市2町の合同訓練のことなのだが)よりも、地域防災訓練の方が有効で実践的ではないのか」。答えは「比較の対象になりません」「両方が必要だと思われます」といったありきたりのところで、質問は終わってしまった。


 じつはこうした「地域防災」の考え方で「防災」について研究を重ねてきたのは、小さな民間のサークルである。この手のサークルは「保守的」と見られる人が多いので、私が防災を質問に取り上げて驚かれたが、このサークルがやっていることはなかなかユニークなのだ。小学校の校庭を借り、地域の人を誘って、テント生活をする。そこででた問題点を整理し、避難生活に必要なノウハウの蓄積を試みる。いま「防災」と名前を付けると莫大な予算が降りてきて、「防災公園」とか「耐震工事」とかが大流行だが、そんなことに金をかけるより、こうした住民自身のなかに経験と研究を広げた方がよほど有効なはずだと私は信じている。

循環型社会形成推進基本法成立とリサイクルの現実

循環型社会形成推進基本法成立とリサイクルの現実
~ けいたろうの議会だより ~


事業者がリサイクルに向かえない
消費者の関心は高まるか

  四月一日から容器包装リサイクル法の完全施行となった。私の住む上福岡市でもこれまでのビン、カン、ペットボトルなどの分別収集に加えて、プラスチックや紙の容器・包装類までの分別収集が始まった。



どれが「容器包装」?

  一年ぐらい前、議員になって初めて市の担当部と話をしたとき、ごみ処理の係りに着任したばかりの部長は、私の前でたばこの箱を取り出し、セロハンと空き箱と、中の銀紙と吸い殻とを並べて「これを全部分別して、リサイクルするというのですか?」と実現を疑問視していた。「鈴木さんは脱焼却という主張だそうですが、国土の狭い日本で燃やさないごみ処理なんて考えられませんね」といぶかるようにいう。もちろん、全部まとめて焼却処分した方が手っ取り早い。そんなことはわかっている。しかしそれではダイオキシンの発生を抑えきれないというのが、当時起きていた問題だ。

 方針転換は意外に早くやってきた。去年の夏頃には、容器包装リサイクル法の完全実施、廃プラスチックの分別収集に踏み切ることを決めた。これは前年の一二月に始まった厚生省によるダイオキシン規制が、ようやくわが市の担当者にも浸透してきたことをしめしていた。従来のようなアバウトな焼却処理では、ダイオキシン規制ガイドラインをクリアできないことがはっきりし、担当部がごみ問題に対する認識を決定的に変えたのである。エラそうにいわせてもらえば、私たちが消費者団体とともに説得を重ねたことがついに功を奏したのである。

 また、分別の徹底と容器包装リサイクル法の早期完全実施は私の選挙公約の一つだった。国政レベルでの政策化と、それを実現する地方自治体とにはこうしたタイムラグが頻繁に生まれる。その狭間で正当な主張をすれば、議員活動は実に簡単にコトがはこぶというわけである。

 四月から分別の完全実施のためには、遅くとも二月中に市内各地域での説明会を終えなければ間に合わない。大慌てで準備を進めたために、分別の詳しいリストを作るとか、牛乳パックをどうするとか、ティッシュの箱をどうするとか細かい点が詰めきれなかった。不安の中での説明会開始となったが、どこもかしこも地域の集会場始まって以来の空前の超満員となった。これには担当の環境課もびっくりした。市民の関心は予想以上に高かったのである。

 また、この説明会での応答が実におもしろかった。この容器包装リサイクル法でいう「容器包装」とはいったいなんなのか。スーパーで売っている野菜を包むラップは包装だが、同じものでも家庭で冷蔵庫にしまうラップは「包装」に当たらない。費用を負担する当事者が法律上違ってくるために、こんな複雑な事態になる。

 ここでクイズを一つ。クリーニングの袋。弁当の割り箸の袋。書籍の外カバー。CDのケース。このうち「容器包装」にあたるのは一点だが、どれか?。わかった人はエライ。けれどこんな複雑系を背負い込まされる市民にはエライ迷惑な話である。



プラスチックの山

 かくして本年の四月から分別収集が始まったのだが、朝早くから環境課の電話は鳴りっぱなしである。どれが「容器包装」で、どれがそうでないのか。毎日クイズをしなければならない。

 それでも何とか分別をやってみると「容器包装」がいかに多いのか、改めて驚かされる。プラスチック類は重量はともかくカサが断然に大きくなる。「容器」というのは、消費される中身ではなく、運搬されて消費されれば不要となるいわば無用のものだ。それがこんなに多い。いかに私たちの生活が無駄なものに覆われていたのか、実によくわかる。

 これまで当市で行っていた資源回収は月二回である。この態勢のまま四月に突入したが、これではとても間に合わないということになってきた。私のところにも「二週間分もおいておけないよ」といった苦情の電話が相次いだ。ビンや缶の分別収集は月二回で何とかなる。しかし、プラスチックはそうはいかないほど量が多い。これでは「燃えるごみ」の方にみんな突っ込んでしまう。担当課に掛け合うと、直ちに週一回の回収に切り替えるという方針が示され、もう一度回収計画の表づくりからやり直して、七月から実施と切り替えられた。容器包装プラスチックは四月だけで四〇トンという莫大な量になった。収集日が増え、市民に浸透すれば、もっと量は増えていくだろう。

 また四月は風が強い日が多かった。高く積み上げられた廃プラスチックの「容器包装」はいとも簡単に宙を舞う。苦情が殺到して担当課が走り回ったのは笑い話なのだが、これには普段ごみ分別に関わらないオヤジたちにも事態の深刻さを自覚させる効果があった。「何でこんなにプラスチックが多いのだ。何とかしろ」というわけである。

 このようにして分別収集する市民の側に「ごみ減量」への気運が高まるのだが、これがどうにも生産者、メーカーの方に生まれない。ごみの発生抑制に有効なインセンティブが働かないのだ。じつはここに容器包装リサイクル法の最大の問題がある。



作るほど安くなる

  これをペットボトルの例で説明しよう。容器包装リサイクル法で再商品化の義務を負う企業の負担は、じつは「再商品化の見込み量」で決まっている。見込み量は前年度実績で計るから、当然生産量とは大幅に食い違う。昨年の例でいうと、再商品化見込み量は四万六〇〇〇トン、これに対して生産量は四〇万トンぐらいある。だから市町村がいくらがんばって分別収集しても、再商品化のキャパシティが決まっていて、渡す人がいない。このため処理されないペットボトルがうずたかく積まれてしまうのだ。

 しかも企業はペットボトルの再商品化に一トンあたり一〇万強支払う。一本六〇グラムとして六円と計算していい。ところが実際の生産量はその十倍だから、生産量でみると一本あたり〇・六~〇・八円にしかならない。

 これに対して、市町村はいくらかけているか。上福岡市の場合、容器包装リサイクル協会がトン九万五〇〇〇円で処理する費用のうち昨年度は六%を支払った(比率は年度、種別によって異なる)。それだけではない。ペットボトルを圧縮、梱包する費用は市町村が負担する。これがトンあたり四万五〇〇〇円、昨年は約一〇〇トン処理して総額五四六万五〇〇〇円かかっている。これが容器包装リサイクル法による自治体の負担増額分である。このほかさらに分別収集の費用が加わるが、それは一般のごみ処理費の中に埋もれてしまうので分けて計算できない。

 学者などの試算では、処理費用の総額を計算すると地方自治体が負担するのは安くみて一本あたり一八円、企業が負担するのは先のような総生産量で計算して一本あたり〇・六円だという。一八円対〇・六円である。費用負担にこんなに差があっては勝負にならない。ペットボトルは作れば作るほど一本分の処理費用は安くなる。缶やビンより効率がいい。そうくれば発生抑制どころか生産奨励だ。ペットボトルが減らないわけは、便利さや使い勝手だけではないのである。

 ではペットボトル以外の容器包装プラスチック類はどうなっているのだろう。

 構造的には大差がないのだが、上福岡市の場合、容器包装リサイクル協会を通さずに、直接に処理業者に持ち込み、トンあたり三万円の処理費用を払っている。本来「再商品化の義務を負う」企業の負担金はわが市の処理費には含まれない。四〇〇トンの処理を見込んで年間一二〇〇万円の予算となるのだが、これでも協会に持ち込むための圧縮梱包費をかけるよりはずっと安く済んでしまうからおかしなものだ。



新たな再処理方法

  先日、廃プラを持ち込んでいる処理工場を、議員有志で見学させていただいた。元々この会社は、市の焼却灰処分の一部を担っていた会社だった。じつはこの会社に巡り会ったことが、わが市のごみ処理の運命を変えたのである。

 ここではプラスチックを「常圧低温油化」という方法で処理している。詳しくはふれないが触媒に貝殻の炭酸カルシュウムを使い、高カロリーの油を取り出すというユニークな処理を行っていた。どうして廃プラが油になるのか現場で実際に見せられても今ひとつよくわからない。質問すると「何で有機物が何万年もかけて石油になったのか考えてみてください」という答えが返ってきた。屎尿処理から始まった資本金三〇〇万の小さな有限会社なのだが、独自に開発した技術力には相当な自信があるようで、この方法でプラスチックを処理すれば、ダイオキシンは発生しないと胸を張った。

 このほか一般家庭ごみの処理全般にもかなり意欲的で、工場長の語り口にも情熱が感じ取れた。環境問題の追い風を受けて満帆であるのだろうが、いかんせんごみ処理の側の利益は薄い。流通や再生の方が「上だと思って」(工場長の弁)利益を持っていってしまうのである。工場の応接室には、「家庭ごみ商品化フロー」という大きな図が張り出されており、すべてのごみを堆肥、油、塩安、凝集剤に変える工法が構想されていた。まだ実験段階のものがあってすべてが実用化されているわけではない。だが、この図を見て、くだんの担当官がしみじみいった。「この通りやれば、燃やす必要なんかないんですよね」。その通りである。



循環型社会形成推進基本法の概要

 1.形成すべき「循環型社会」の姿を明確に提示
 「循環型社会」とは、
[1]廃棄物等の発生抑制
[2]循環資源の循環的な利用及び
[3]適正な処分が確保されることによって、天然資源の消費を抑制し、環境への負荷ができる限り低減される社会。

2.法の対象となる廃棄物等のうち有用なものを「循環資源」と定義法の対象となる物を有価・無価を問わず「廃棄物等」とし、廃棄物等のうち有用なものを「循環資源」と位置づけ、その循  環的な利用を促進。

3.処理の「優先順位」を初めて法定化
 [1]発生抑制
 [2]再使用
 [3]再生利用
 [4]熱回収
 [5]適正処分との優先順位。

4.国、地方公共団体、事業者及び国民の役割分担を明確化
  循環型社会の形成に向け、国、地方公共団体、事業者及び国民が全体で取り組んでいくため、これらの主体の責務を明確にする。特に、
  [1] 事業者・国民の「排出者責任」を明確化。
  [2] 生産者が、自ら生産する製品等について使用され廃棄物となった後まで一定の責任を負う「拡大生産者責任」の一般原則を確立。

5.政府が「循環型社会形成推進基本計画」を策定
  循環型社会の形成を総合的・計画的に進めるため、政府は「循環型社会形成推進基本計画」を策定。

6.循環型社会の形成のための国の施策を明示
                                
注=同法は容器包装リサイクル法など具体的な政策を定めた個別法を統括するもの

地方分権シリーズ・「少子化対策」を考える

地方分権シリーズ・「少子化対策」を考える


子供を生むかどうか、生むことのできる女性に

選択権があるのはいうまでもないが、

合成特殊出生率が1.39(九七年)と低迷する原因の一つに、

生み育てることが困難な社会であると

いう点も確認しておくべきだろう。



「保育園は足りない」のである。決定的に足りないのだ。
 働く女性なら、大半の人が子供が生まれたら保育園に預けよう、と考えるだろう。ところが、保育園を選択するのは、社会的にはまだまだ少数者なのである。

 わが市の例で説明しよう。

 いま、年間だいたい五百人の子供がうまれる。これに対して公立保育園で〇才児保育の定員枠は十二人しかない。この四月に、団地の立て替えにともない新しい保育園がオープンして、やっと定員枠は倍になる。そのほかは無認可の「家庭保育室」等が七十人を吸収される。すると約四百人が残る勘定だ。うまれる子どもの八割は保育園を利用しないか利用できない。三才児以上になると、私立幼稚園利用者が七割、残りを無認可保育園と公立保育園でわけている。

 これをどう評価するか。

 生涯勤めに出ない専業主婦というのは都市部に限っても二割に満たないそうである。実際のところ、子供が小さいうちは働かないという選択をする人が大半だということになる。この人たちは保育を必要としないのだろうか。私にはそうは思えない。教育費が高騰する中学生以上の親の世代になると、就業人口は飛躍的に拡大することをみても分かるように、こどもを預けやすい、育てやすい環境になれば、保育園はもっと多くの利用者が使うようになる。

 もちろん女性の就業人口は年を追うごとに拡大しているから、保育への要望は高くなる一方である。保育園へ入る順番をまっている待機児童数も全国的に増えている。

 しかしうまれる子どもがみんな保育を望んだら、圧倒的に施設は足りない。しかも基準の厳しい公立に入れず、無認可の保育園に預ければ、保育料は公立の二倍から三倍に跳ね上がる。つまり、「安心して子供を生み育てる社会」という標語に見合うほどのサービスは到底望めないのが実情なのである。

 すでに少子化対策の経験を積んでいる北欧を例にとると、「一歳以上の子どもに保育を保証する」という国会決議があるぐらいだから、保育をだれもが必要とする社会的な事業と考えて取り組むことに雲泥の差があることはお分かりいただけるだろう。

 もともと「児童福祉法第二十四条」には、「保育に欠ける」児童については市町村が「措置」すると定義されていた。この背景には、保育は家庭でやるという大前提があったのである。家庭で保育ができない場合、一種の行政処分として、つまり生活保護などと同一の措置として「保育」は考えられていた。だから、家庭で「保育ができる」と考えている人は保育園を利用しなかったし、どこの役所でも保育園の係は、高飛車で評判悪く、市民の足は遠のいていたのである。

 ところが九八年四月から施行された改正児童福祉法では、この措置の部分が、「保育に欠ける」児童の「保護者から申し込みがあった時は・・保育しなければならない」に改められた。ようするに特別の事情で行政が保育するのではなく、親の要請に応えられるものにせよ、というニュアンスに書き換えられた。これで出生率が上がるかどうかは別問題だが、ここでもまた保育という閉ざされていた分野が社会に開かれたのである。


エンゼルプランっていうんだぜ
 これは地方分権との関連ではどういうことになるだろう。

 九十年代中頃に、福祉の基礎構造改革に着手した政府は、高齢者福祉のゴールドプラン、障害者プランに加え「子育て支援策」としてのエンゼルプランを打ち出すことになる。これを福祉三大プランというのだが、いずれの場合も地方自治体に独自計画のプランニングを義務付けた。これらは機関委任事務からはずされ、より地域的特性を優先せようという主旨が含まれたから、地方分権の先取り的な政策となった。また四月に施行される分権一括法で、無認可保育園の指導監督業務が市町村に移ってくるなど、児童福祉の領域で自治体の果たさなければならない役割が増大した。

 すでに述べてきたように、今の保育環境は「安心して生み育てる」社会には余りにも程遠い。加えてこれまでの貧民救済的な「措置」制度のもとでの保育=児童福祉は、ごく一部の人(わが市の場合産まれる子供のうち五百分の十二人)を救済するようにしか作られていないので、社会的、潜在的な福祉の需要に対応することはとてもできない。

 それでも少子化対策としてそれなりに有効な保育政策をすすめようとすると、独自財源には限界があるので、やはり「民営化」という方式を選択することになる。

 民営化といっても、保育の場合、保育士の登用など資格用件は厳格だから、すぐさまどこかの株式会社が経営に乗り出すというわけではない。厚生省が打ち出しているのは、従来の認可保育園の設置基準を大幅に緩和したり、特定福祉法人以外の事業者の参入も認めるといった程度のことである。もちろんPFI法で、公的に作った施設を民間業者が経営するということも今後おこりうる。

 すでに文部省管轄の幼稚園や学校法人が保育園経営に乗り出したり、北九州市や鎌倉市ではいち早く公立保育園の民営化計画を打ち出して波紋を広げているから、関心のある人は自分の住んでいる地域にアンテナを伸ばしておくべきだろう。

 常勤者ではない人への一時保育や、夜八時、あるいは深夜までの延長保育、その他駅前保育や二十四時間型保育所、さらに子育て支援センターなど、自治体もサービス内容を多彩化する。上福岡市の場合、家庭保育室と公立保育園の公私の費用格差是正処置も今度の予算案に盛り込まれた。このように行政区によって子育て支援への力の入れ具合の違いはけっこう見えやすいものになる。


  
保育園は民営化してはならないか
 昨年十二月二〇日の朝日新聞「論壇」に「保育施策は公的な枠組みで」と主張する投稿があった。投稿は「営利を追求する考え方と子供の福祉が両立しうるか」と、市場化を認めることは、企業の「コスト削減、利潤の追求」に子供を投げ出すことではないかというのである。介護保険でも同質の議論が多かったが、これらの主張は旧来の社会福祉法人や、保育運動の中心にあった革新勢力に根強い見解といえる。

 ここで断っておきたいのだが、行政の中には、保育の社会化という議論を故意にねじ曲げて、現にある保育施設を行革つまり経費節減のターゲットにして「民営化」を図るなどというのが出てくるが、こういうのは論外なのである。もしそういう自治体があれば、そんなことは絶対に認めてはならない。

 そうではなくて、北欧型の高福祉を理想として、要するに福祉政策は国や自治体が公的に実現すべきだという考え方ならば、それは検討に値する。北欧型の高福祉社会を選択肢から取り除くべきだとは私も思わない。

 しかし、現にある保育園の経費を減らし、浮いてくる経費で、多くの保育需要に応えていくというのならどうだろうか。単なる経費削減策と区別する難しさが残るが、幾多の事業者に参入の機会を与えることで、多様な市民ニーズに対応するという路が開ける可能性がある。

 また民間の資本が参入し、市場経済的な経営になると子どもの利益を損なうというのは本当だろうか。市場に委ねることには確かに危険もあるが、私たちはそれを制御し、監督し統轄する知恵も学ぶべきではないのか。保育であればコスト削減のために人員を減らすという選択ではなく、子供の豊かな育成といったサービスの質のために企業が努力するよう工夫をすることもできるはずである。

 そのためには費用対効果の透明性が必要である。サービスの提供にはそれに見合う費用がかかり、自己負担と公的負担の比率がどうなっているかはっきりすべきだ。それを市民が参加して監督するという機関も作らねばならない。その上で利用者がサービスを「選ん」だり、第三者に苦情処理を依頼するという枠組みを作る。しかしこういう情報公開やサービスの透明性の確保は、現在の公的制度の方が作りにくいのである。


子供達の空間に環境基準を
 さて、話を上福岡市に戻すことになるが、いま、私たちは新しい保育園の建設に際して、保育園や児童福祉行政に対する市民的関与というか、監督の大切さを改めて痛感することになった。

 ことの起こりは昨年九月、議会の一般質問で私は「新設保育園の建材について」をとりあげたことにはじまる。新建材にホルムアルデヒドなど有害物質がどのくらい含まれているかを調査し、よるシックハウスを回避しようとしたのである。答弁で都市整備部長は「みなさんの家庭で使われているものですから、心配ありません」と答えた。十二月になって私の所属する「常任委員会」(議員は必ず○○委員会に所属する)が建材調査に同意した。年明けにおこなわれた調査で、保育園に使われる合板、パーチクルボードの大部分がホルムアルデヒド含有であり、玄関から廊下、各保育室にいたるまで、大部分が合板でおおわれていることが分かったのだ。

 建築建材は、すでに予算措置の終わっているものでもあり、使われているものも規格品であるから、建設をただちにとめるほどの力は私にはない。せいぜい、開園前にホルムアルデヒドなどの調査をし、建設省が定めている指導基準〇.〇八PPMを上回った場合には開園の延期などの対処をおこなうことを約束させた程度である。

 御承知のように、この指導基準は甚だしく甘い。有害化学物質の影響で子供達が過敏症やアトピーになれば取り返しがつかない。乳幼児の施設にこんなものを使うなんていうのはもってのほかなのだ。

 ということで、着々と工事の進む保育園を毎日のように見据えながら、その調査の成りゆきに身構えているところなのである。(第三回終了)

落日の日本株式会社の行く末 私たち改革抵抗勢力?

落日の日本株式会社の行く末 私たち改革抵抗勢力?
~ 保育園民営化 企業保育とコスト優先の殺伐 ~


 小泉首相の公約に「待機児童ゼロ作戦」というのがある。所信表明演説で「明確な実現時期を定め、保育所の待機児童ゼロ作戦を推進し、必要な地域すべてにおける放課後児童の受け入れ態勢を整備する」とされた。この問題が、いま全国で、保育園に通う親たちと、保育園を抱える自治体を揺るがしている。児童の受け入れ態勢を整備するためには、民間の力を借りねばならないからである。

 足りない保育施設を増設するために民間の力を使う、その一体何が問題なんだと思う方は多いだろう。逆に民間資本の参入を促し、保育園をどんどん作るべきだ、というように思われるかも知れない。

 ところが、自治体行政の現場から見ると、この「作戦」はどうにもうまくいきそうにないのだ。それどころか小泉改革が馬脚を現す一因となるのではないかという予感すらよぎる。



待機児童ゼロ これはいいことだ

  まず最初に断っておくが、待機児童解消は小泉首相が特別に掲げた政策ではない。
 政府には内閣官房長官を議長に、各省大臣と学識者で構成されている男女共同参画会議というのがある。そのもとに「仕事と子育ての両立支援策に関する専門調査会」(樋口恵子会長)が組織され、ベネッセコーポレーション社長の福武總一朗などもここに参加している。この調査会では、女性の子育て支援には育休制度の充実など職場改革が必要ということと共に、大規模な保育サービス提供が不可欠という認識で一致している。これを受けて、厚生労働省も来年度中に5万、04年度までに計15万人の、待機児童解消を政策目標に打ち出すにいたった。

 小泉首相の「待機児童ゼロ」はこれらの動きに乗っかったといえるものだが、期限を明確化したり、「最小のコストで最大の効果を」といったスローガンを好んで掲げるなど、計画推進へ拍車をかけているところが小泉流といえるだろう。

 ところでこの調査会で、保育への民間企業の参入を強く主張し、旗振り役になっているのが福武氏である。福武氏は保育事業に「企業参入が進まない根拠」として、民間企業にとって「投資と回収の展望が見えない」点を挙げ、現行法制度の問題点を指摘する。また待機児童ゼロを掲げる小泉氏に「民間企業やNPOの参入数値目標も掲げるべきだ」とかみついてもいる。

 本紙にもかつてレポートしたが、昨年3月の児童福祉法改正により、保育園経営は公設以外は特定の社会福祉法人に限られていた枠が取り払われ、企業にも参入の道が開かれた。ところが以降すでに1年半が経過したが、後に述べる公設民営方式は別として、単独の企業参入は1件もないのが実状だ。要するに保育を事業化しても、現行の父母負担となる保育料や、保育の基準をクリアーしようとすると経営が成り立たないから、企業家たちはこの分野に近づいては来ないのである。



「新自由主義」的保育改革? これはどうかな

  この現状について福武氏は次のように主張する。

 「構造的な改革に向けて、児童福祉法はいったん解体し、子育て支援型福祉サービスに関する部分を、契約の概念に基づいた新たな仕組みとして再設計するべきです。市場原理をベースとしている民の世界では、『高品質・低コスト』のサービスは当たり前です。保育の質について同じサービスレベルが担保されるなら、より多くの施設を整備・運営できる、軽い財政負担のほうが国民全体にとってよいのではないでしょうか」(同調査会最終報告・委員の付帯意見から)。

 福武氏のいっているのは、介護保険など社会福祉の基礎構造改革で、旧来の行政による措置制度は「契約」型に改められているのだから、同じ福祉の範疇にある児童福祉法も全面的な見直しが必要だという観点である。そして福武氏は「契約」とは市場原理に委ねることであり、そのことが国民全体にとって善い、と考えている。

 こういうサッチャー張りの新自由主義的政策に賛同するひとは、じつはそう多くはない。実際のところ、先の調査会でも「保育の質の保持」は第1の命題に掲げられており、「公立及び社会福祉法人を基盤としつつ、さらに、民間活力を導入し公設民営型など多様化を図る」(仕事と子育ての両立支援策の方針について・閣議決定 01・7・6)のが方針とされている。

 そこで検討されているのは「多様な主体」が保育の担い手となるために、初期投資を軽減する「公設民営」、すなわち土地や建物は公設し、後の経営や運営責任は民に委ねるというものである。この場合の民間とは、企業に限らずNPOや学校法人、宗教法人なども想定されていて、昨年度では認可保育園191件のうち、27件が社会福祉法人以外の「多様な主体」であった。

 さらに、今年度の厚労省の概算要求には、民間が作ったものへ公的な補助をおこなうPFI方式

(PrivateFinanceInitiative)が示唆されているから、今後これも拡大するかも知れない。

 しかしこれらの場合は、待機児童解消がおぼつかない自治体で、しかも新設保育所の場合に、例えば空き教室を利用したり、駅前型保育で多様なニーズに応えるというときに、こうした方式を迅速に実施することが奨励されているのであって、これ自身は冷静な議論といえるものだ。

 これらの動きを串刺し的に、特に福武氏のような極端な事例までをも一緒くたにして「保育の公的責任の放棄、保育の市場化」と断じるのは少しはずれているといえるだろう。



公立は廃園で民営化 なんじゃこりゃ

  しかし、これが自治体の現場でどのようになっていくかというと、また話が変わってくる。いま全国の自治体で、保育園の公設民営化ラッシュが始まっているのだ。

 いくつか拾ってみよう。

 鎌倉市・市内5カ所は公立のまま残し、3カ所を民営化。御殿場市・特定園を除いてすべて民営化。宇都宮市・公立22園のうち8園を統廃合、民営化。岐阜市・公立5園を民営化。鯖江市・公立をすべて民設民営化に。堺市・全園を民設民営化……取り上げていくときりがない。わが上福岡市も老朽化した保育園の建て替え計画があり、建て替えと同時に民間委託は「選択肢のひとつ」とされた。

 どうしてこんなことになっているのか。

 堺市の試算によれば、保育園児1人あたりの運営費は、公立が約200万円、私立が115万円だったという。つまりコストの問題だ。財政難から経費削減を志向する自治体に、「民営化」は魅力的なインセンティブを働かせているのである。

 だが同じ保育士資格者を配置した認可保育園である。設備、施設が同じでどうしてこんな差が生じるのか。私立、公立では若干の賃金格差があるが、是正処置もあるのでその差は数%に過ぎない。保育行財政研究会によれば、このコスト格差は保育士の平均年齢による格差だという。堺市の公立保育園では平均年齢は42・9歳、私立は約27歳で、賃金に換算すると1・79倍になる。ようするに年齢とともにやめていく私立はコストが抑えられる、これだけのことなのだ。保育士は若いうちにやめろというわけである。この政策を「男女共同参画会議」が推進しているというのだから、何とも皮肉な話である。ちっとも子育てと仕事の両立になってないではないか。



保育の公的責任を保持させよう

  一方で先の福武氏率いるベネッセコーポレーションが、三鷹市の委託を受けて保育園の経営に乗り出した。委託先を決めるプロポーザル方式の入札では、三鷹市が試算した年間運営費1億7000万円に対し、ベネッセが提示したのは7900万円だった。ベネッセが経費を落とせたのも人件費の押さえ込みだ。常設スタッフは1年更新の契約社員にしたが、保育士募集の約20人枠に、340人の応募が殺到したそうである。

 この試みが成功するかどうか、それはわからない。ただ私たちの記憶に新しいのは、介護保険導入とともに全国展開を試みたコムスンの失敗である。シルバー市場は市場経済にはそぐわないという一例として、コムスンの問題を考えておくべきではないか。

 介護や保育といったかつて家族制度のもとにあった人的サービスは、機械や設備に代行させていくことに限界がある。人件費を削減しようとすれば、必ず無理が生じてくる。こうした福祉分野のサービスには、特定の有料サービスを除いて、公的な枠組みをはずすことはできないのではないかと私は思う。

 いま公立の保育所に預けている人のなかには、無認可の保育施設を利用した人は多い。各地で死亡事故や問題を引き起こすベビーホテル等では、営利追求に走ったケースがほとんどだ。全国で21件の死亡事故を引き起こしている『ちびっ子園』に子供を預けたことのある母親から、やっとの思いで保育所を見つけたが「ミルクは何回にしますか」「回数が増えると費用はこれだけ増えます」といった園側の対応に驚いて、即座に子供を連れ帰ったという話を聞いた。ここにおいたらアブナイと真剣に思ったそうだ。

 企業経営がすべてこうなるとはもちろんいえない。しかし企業参入を促す規制緩和策は、こうした危険性をどこかにはらんでいる。安易な民営化にひた走る行政の姿勢もまた同じである。

 保育先を求めている親の願いが切実であると同じように、いま公的保育園に預けている親たちは、安易な民営化を望みはしないだろう。最小コストで最大効果が得られればよいが、単なるコスト削減のターゲットとして、保育を市場原理に委ねるような選択をすれば、小泉改革もまた、イギリス・サッチャー政権と同じ運命をたどるだろう。それこそ、2度目は茶番として。(市会議員)

地方自治体にゆれる自治体の現在 けいたろうの議会だより

地方分権にゆれる自治体の現在
~ けいたろうの議会だより ~


 計画経済の行き詰まりが顕著になったソ連で、ゴルバチョフ大統領は「唯一うまくいった国がある。それは日本だ」と述べたという。日本の中央集権的官僚制は政策立案から計画のいっさいを統括し、その実施、予算の消化、末端までを管理統制する。GNPの六パーセント以上を占める公共事業群、大蔵省の護送船団方式、郵政省による一括した通信情報管理、等々あげればキリがない官僚の権限は、国民生活の大部分を網羅してあまりある。これが社会主義的だといえなくもない。

 一方こうした中央官庁の縄張りがいわゆる縦割り行政だとすれば、官庁の出先機関となって地域を面で捉え、税の徴収から道路河川の管理、消防、医療、教育、水道にいたる各種行政サービスなど、住民生活に密着してその細部を請け負っているのが地方公共団体、すなわち都道府県や市町村といった地方自治体ということになる。

 いまこの地方自治体が、地方分権という大きな波に揺らいでいる。地方分権が私たちの生活にどのような変化をもたらすのか、このシリーズを通じて考えてみよう。



判断は前例踏襲 
市民のニーズに即応できず  お役所仕事はもう限界だけど…

 九九年七月国会で、いわゆる地方分権一括法が成立した。

 一括法は大幅に改変された「地方自治法」を中軸に、改正の対象となる法律が四七五本、附則を含めると五六三件の法改正をともなう膨大なものだ。

 法の施行は大部分が本年の四月一日からはじまるので、いま都道府県及び各市町村の担当者たちは、関連する条例整備や権限移譲にともなうあらたな事務への対応に大忙しの時を過ごしている。これまで中央集権的に処理されていた住民サービスなどの権限や責任の所在が国から都道府県、国や県から市町村へ変わるものがほとんどだから、サービスの内容にただちに変化が生まれるわけではない。

 それでも介護や保育といった福祉サービスから都市計画、公共事業に至るまで、変化はじわりと現れてくる。先日の吉野川可動堰にたいする住民投票が、地方分権との絡みで取り上げられているように、沖縄の基地問題や各地の処分場、ダム建設などをめぐって国と地方が対立するという機会が、今後さらに増えるのはまちがいない。さらに東京都や大阪府のように財政危機に陥いる自治体が続出したり、その人が暮らしている行政区ごとに税制やサービスに違いが生じるといった事態もめずらしいことではなくなるだろう。

 難しいのは、分権が進み国や県から権限が移っても、財源がついてくるわけではないことだ。いきおい自治体は「民営化」という選択肢に頼ることになる。今日すすめられている地方分権は、これまで行政サービスとして行われてきたものを「市場化」するのか、それとも公共的事業として保持するのかという選択の場に、私たちを立たせているのだ。



コンサルタントってなんだ

 すでに現状で役所のあらゆる仕事に、民間企業の進出が目立つ。まちづくりや都市計画、環境計画などでの政策立案や計画づくりといった本来役所がやると思われている仕事をコンサルタントが代行している。

 一時期、どこの街並みをみてもまったく同じタイプの景観が生まれるので、おかしいと思ったら、もとになっているコンサルの設計図が同じだったと問題になったことがある。最近は手が込んで、市民参加やワークショップといった手法も、コンサルタントの人達が使う。まちづくりのノウハウなど役人からは間違ってもでてこないアイデアは民間企業がしっかりと握っているのである。

 昨年末、私たちも公園作りで、ワークショップ方式を採用したが、それを采配していたのは市役所の職員ではなく、どこぞやのコンサルタントだった。
 これらコンサルの大部分は、大手企業の営業系列のエージェントである。彼らは役人の仕事の大方を手伝い、その役割を代行する。そして発注される工事そのものを、今度は系列会社が請け負うのである。

 この構造にも大きな問題があると思うが、しかしいまやこうしたコンサル抜きに役所の仕事は成立しないまでになっているのだ。

 一方役人はといえば。
 「それについてはちょっと問い合わせてみましょう」。

 その場での回答を避ける何気ない担当部長の言葉に、当初私はひどくとまどったのを覚えている。それは質問事項にかかわる秘密でもなんでもない書類の閲覧にすぎなかったのだが、担当官はごく当たり前のようにそう言った。彼の部下への指示は、私をもっと驚かせた。彼は部下に私にその情報を示して良いかどうかを「県に」問い合わせるように指示したのだ。

 コンサルタントの役割などもそうだが、議員になるとこういう役人の仕事の仕方がよく見える。

 役所のあらゆる仕事は、法律的な根拠があることになっている。法律が国会で成立すると、監督官庁は、執行主体となる各自治体にマニュアルつきの通達で指示を送る。条例が必要な場合には、ちゃんとその雛形も添付される。役人で法文そのものを読む人は少ない。みんなマニュアルを読んで雛形にしたがって書類をつくるからである。
 役人が何らかの判断をしなければならないことに直面すると、まず上役に聞く。その上役は監督官庁に必ず問い合わせる。法文に照らして自分で判断するというようなことはまずない。

 たとえば市民の一人が「こういう施策が必要だ」という提案をして、それが実情に即した合理的な政策だったとしよう。しかしそれを受け入れる役人は皆無に近い。たいていは「お話はうかがいました」という返事で終わる。その市民の要望に合致する官庁サイドの通達(政策)があるかどうかを調べて、合致した場合に採用するという態度をとるのはかなりレベルの高い方に属する。

 また「どこどこの市でこういう施策が取られているから、うちもこれをやろう」という説得もまったく通じない。しかし、官庁の通達にこう書いてあるじゃないかとやると、役人はひどく慌てる。そういう通達のたぐいに精通し、情報を独占していることが、その役人の「仕事ができる」ことの証なのである。



委任事務の廃止と条令制定権

 自治体といっても、図書館、公民館など施設の管理を除けば、本来の意味での自治的業務など役所の仕事のうち数パーセントにも及ぶまい。おおかた市町村は中央官庁の地方出先機関として仕事をしており、地方自治にはせいぜい「民主主義の小学校」という称号が与えられるにとどまっていた。

 全国的な行政の均一性、サービスの一元化こそが、その弊害も含めて「機関委任事務」という中央官庁→都道府県→市町村の指揮命令系統にできあがってきた仕事の図式である。ところが地方分権一括法の最大の特徴は、地方自治法の大幅改正でこの「機関委任事務」そのものを廃止したことなのだ。

 これまで機関委任事務とされた役所の仕事(現在五三一の事務がある)のうち約四割を「法定受託事務」という形で残すものの、六割が「自治事務」に分類される。

 もう一つ大きな変化は、旧法では、機関委任事務について認められていなかった条例制定権が「法律の範囲内で」という限定つきではあるが、法定受託事務、自治事務の両者に認められたことである。もちろん自治体の側に独自の政策を条例化する意欲がなければ権利は画に描いた餅にすぎない。どこまで有効性を持ちうるかは、その自治体の自治能力の如何にかかっている。

 たとえば高知県の港湾非核化の試みを考えてみよう。

 橋本知事は港湾に入港する外国軍艦のすべてに「非核証明」の提出を義務付けようとしたが、「外交は国の権限」といった圧力で当初案は撤回された。しかし、新法下で、もし独自の条例化を試みればそれは「非核三原則」という「法律の範囲」にある事柄ということになり、条例制定は認められる。領分問題で国から圧力を受ける根拠は消えるのだ。同じような事例は沖縄でも考えられるし、各地のごみ処分場問題などで、威力を発揮することは充分ありうるのである。



自治体の自治能力が問われる

 さて、いうまでもないことだが地方分権は行政改革、直接的には橋本ビジョンといわれた改革構想の一環に位置付けられている。中央省庁が再編されるのは二〇〇一年一月一日からだが、それに先立って官庁の仕事を減らし「スリム化」する。同時に地方分権一括法と同時期に成立した「民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律」いわゆるPFI(PrivateFinance Initiative)法がイギリス並に適用され、民間企業の経営が学校や刑務所まで及んだりすることも予測される。

 この行き着く先はどんな事態か。

 住民台帳の管理、戸籍なども民間サービスを利用する。保育園も民営化し、介護にも保険方式を導入する。営利の対象にならない仕事のためにNPO(民間非営利組織)も整備する。図書館の館長や学校の校長も民間人から起用する。自由学区制にして学校にも競争原理を導入する。消防も水道も道路管理もし尿処理も民営化する。市民と企業と役所はトライアングル・パートナーである、等々。

 これまで行政の領分であった各種サービスなどが「市場化」することを私たちはどこまで容認しうるのだろうか。市場化を認めるとすれば、そこにはどのような条件が加えられるべきだろうか。

 すべてを市場原理に委ねることで健全な社会が実現すると、まるでフリードマンのように考える人は少ないだろう。といって北欧型の高福祉社会を理想としても、それを実現するには現状の税収構造では財源を確保できない。すでに多くの自治体が借金ずくめ、加えて不況による税収不足。地方自治体の借金の総額は、来年度一八七兆円に達するという。介護保険などに典型的なのだが、行政サービスを過剰化すれば、財政危機は避けられない。

 これらの難関を乗り切っていくためには、自治体が独自の財務計画を持ち、ある程度の民間企業の力も引き出しながら、絶妙なバランスで自治体を運営するという離れ技が問われる。自治体の努力こそがまさしく「地方自治体の再生」のポイントに他ならないのだが…。



保険料基本ソフトが決まらない
ヘルパー派遣はどうする? 介護保険導入をめぐるドタバタ

 本年四月からの実施が予定されている介護保険。本紙九八九号(一〇月二五日付)に介護保険問題を報告した時は、事業計画策定委員会の傍聴をめぐって、激しく当局と対立していた時だった。昨年の年末になって、当局はこれまでの態度を一変して、ついに傍聴を解禁、会議の公開に踏み切った。ついでにあらゆる市の付属機関(審議会など)の公開というおまけもついた。こんなことは当たり前のことだからさしたる感激もないが、会議の公開は以前から求め続け、私の選挙公約の柱にかかげた内容であった。

 こうも簡単に公約実現となると議員としては気楽なところだが、傍聴することになった重い扉の向こう側で、策定委員会が直面していたのは、これから述べるような息苦しい現実である。



政府に翻弄される福祉行政

 介護保険制度は、橋本首相が厚生大臣であった頃に企画検討されたといわれ、九六年自社さ政権下で法制化されたのだが、今年四月の実施を前に政府の方針がころころ変わり、ドタバタを演じている。

 自民党の法案審議の実権を握る亀井静香が「家族のきずな」を説いて、当初案での介護保険施行にストップをかけ「政府の特別対策」をまとめあげさせた。

 「六五歳以上の保険料徴収を半年据え置き、その後一年半額とする」。「四〇歳以上についても国が一年間財政支援する」。「介護家族には慰労金一〇万円などを支給する」といったものである。これら保険料の軽減策で、なんと九千億もの赤字国債が発行されるという。

 厚生省は、在宅介護に必要な報酬単価を発表した。ここでも「身体介護」「家事援助」という二分類に新たに中間項目をもうけ単価をきめたり、「家事援助」の対象者を同居家族のいない単身者に限るなどに変更した。これらはすべて自治体の頭ごしに方針転換されている。その度に、市町村ではケアマネージメントを書き換え、コンピューターのソフトを変更し、保険料の算定をやり直さなければならない。

 介護保険法は、高齢者実態調査にもとづいて「地域の実情に根ざした」計画をたちあげることを義務づけている。にもかかわらず、おきている事態はまったく逆である。政府の方針が変わる度に、それに合わせて事業計画書に変更が加えられるのだ。もう、どこの自治体でも、三月議会ぎりぎりまで条例案の策定を引き延ばして、最後の土壇場で決着させる以外なくなっているというのが実状なのである。



「儲からない」介護予防は自治体に

 市町村に影響を与えたのは、これら保険料の変更の問題ばかりではない。

 あまりマスコミでは注目されていないが、政府の特別対策には「介護予防は市町村でおこなう」という一節が加えられた。「介護予防」とは、要介護状態にならないように高齢者の生活を支援することだ。要介護認定され保険の対象となるような収益のあがる分野とは違う。また「介護予防」の分野は「要介護認定」で「自立」と判定されても、状況によっては介護が必要になる人への支援など、これまで行政がおこなっていた高齢者事業の全部を含んでいる。

 こうした高齢者保健福祉事業を「ゴールドプラン」というのだが、今度はこの「介護予防対策」を盛り込んだ計画が「スーパーゴールドプラン21」と名付けられ、早くも一兆円を超える補正予算が組まれている。介護予防でのヘルパーの派遣などは「介護保険に準じて」本人が負担する分もあるが、基本的には国と自治体で財源を分ける税負担方式である。この施策がいかに機能し効果を上げうるかは、財政的にも政策的にも各自治体にとって大きな問題にならざるを得ない。

 話を前に戻すが、市町村が条例を制定する場合「法律の範囲内で」というのが憲法上の前提となる。それでも条例で、法律が対象としていないものを含めるとき「横だし」といい、法律以上の規制を加えるとき「上乗せ」といって認められている範囲がある。

 介護保険法にもとづく条例制定では、法が対象としていない配食サービスや外出援助、布団乾燥などを「横だし」でおこない、ヘルパー派遣などの回数を自治体ごとに増やしたりすることを「上乗せ」で考えるというのがいわばこれまでの焦点であった。

 この「横だし、上乗せ」なら財源は六五歳以上の被保険者負担となり、サービスは介護保険と一体で民間業者の参入が見込まれていた。ところが「介護予防は市町村で」となると、市町村が独自の高齢者福祉事業を構想しなければならない。さらに配食サービスをおこなう場合、保険業務で業者まかせで良かったものが、同じく業者に頼むのでも、今度は自治体の委託事業となり、責任も財源も市町村が引き受けることになる。

 このため、介護保険事業者である「社会福祉協議会」などは、保険業務と委託事業を使い分けてヘルパー派遣などに対応しなければならず、これまた大きな混乱のもとになっている。


デメリットばかりでない

 だが介護保険は悪いことばかりだとは私は思わない。自分達がどの程度の介護サービスを望むのかということが、どの程度の保険料を払うのかということにドライにはね返ってくるシステムに、一応はなっているからである。

 そこでは企業からNPOまでの多様な事業主体が登場し、かつ事業者に限らない「潜在的能力」が開発されうることもメリットといえるのではないか。

 福祉がビジネスとなることは、弊害もあるが一方でモノづくり中心の産業構造からの転換にはなるだろう。

 また多様な事業主体が参入したことで、一部の社会福祉法人などに限られ閉鎖的ですらあった高齢者福祉への間口が広がり、超高齢社会の到来を前に、誰もが己の問題として介護を考えるようになったということもある。

 介護の社会化によってうまれる共生と連帯が、高齢者にとっての本当の幸福や満足につながるか。これを成功させていくかどうかが、私たち地方議員の力の出しどころなのである。