2006年09月09日

NPO再考(2006年)

NPO再考(2006年)
 
はじめに
 
 98年の法制定以来、国内NPO法人(特定非営利活動法人)の数は増え続け、05年の統計では、法人登録数は2万5000を超えてなお増加傾向はとまらない。
 
 多くの自治体でNPOの存在はめずらしくなくなったし、テレビや新聞といったマスコミに取り上げられる回数も増えた。「NPO理事」といえば、何らかの肩書きとして社会にも通用するかのようであるし、07年問題で大量退職する団塊世代の受け入れ先としても、あるいは、地方自治体の指定管理者制度の受注先としても、NPOはしばしば話題に上るようだ。
 
 だが、だからといってNPOが広く社会に受け入れられ、「新しい公共」であるとか「官と民の協働」などとして、人びとに認知されたというのは言い過ぎだろう。
 
 実際のところ、自治体の指定管理者導入で受注指定法人となったNPOは10%に満たないし、それも旧来の管理委託を行っていた団体がNPO法人を取得したという例が圧倒的に多い。一方では、暴力団関係者がNPO法人を隠れ蓑にしているとして解散を通告され、法人は作ったものの実態の不明なもの、連絡先すら定かでなく業務改善命令が出されるなどのケースが後を絶たない。ある調査によれば、NPO法人の半数以上が、こうした実態なき法人となっていると報告している。
 
 本稿では、こうした法制定以来の現状を踏まえつつ、NPOとは何かに迫ってみたい。また、そうしたNPOは、われわれ社会運動にとって何らかの役割を担いうるか、といったいささか自分たちの現状に引きつけた議論を試みることにする。
 
 そこで大変アプリオリではあると思うが、まず最初に、ここに政治と企業、公と私という縦横二つのベクトルを設定して問題を考えてみることにしたい(図1)。政治と企業を横軸に、公と私を縦軸においた図を念頭に置いていだけないだろうか。ちょうどこの両者の中間項にあるNPOの位置を明確にしていきたいのである。
 
なんのためにNPO
 
 3月11日朝日新聞be Report欄に「NPOで成功するコツ」という記事が組まれた。
この記事によれば、「成功するための7箇条」とは、1、はっきりとした使命を。2、仲間選びは慎重に。3、自前で実態調査を。4、ない力は外から。5、財源は多様に。6、活動は楽しく。7、小さくとも成果を。となっていて各地NPOの実践例とともに紹介されている。
 
 さてこれを見て、この点は得意だがこの点はどうも・・といった見方が成り立つだろうか。これらは相互に絡み合うのできっちりとは分類できないが、筆者なりの勝手な考えを言えば1,3,7といった目的に係わる分野を、「政治と企業」の横軸で考え、2,4,5,6といった組織編成や手法に係わる部分は「公と私」の縦軸に分けて考察することができそうである。
 
 まず1の「はっきりとした使命」のほか、3や7に係わる分野で見ておこう。
03年5月の法改正で、NPO法の指定する特定非営利活動は、現行の12分野に新たに5つの分野が加えられ、全部で17分野となった(別表1)。このいずれかに属さないと法人認証は無理だが、この分野に属すれば官庁は「必ず認証しなければならない」ものとされている。これは許認可ではなく、認証、つまり承認という手続きだから、それほど難しい要件ではない。
 
 たとえば、水力発電を目指したとしよう。その発電が環境保全に貢献する技術革新の要素を備えていれば、「環境の保全を図る活動」にも「科学技術の振興を図る活動」とも分類出来るので、充分に法人取得の要件を満たしていることになる。ただし実際に技術が完成して、電気の販売が可能ならば、わざわざNPOになる必要がない。企業活動としてやっていく道も選択できるからだ。
 
 ところが「使命」の部分、つまり「環境保全」に重きが置かれていたとしたらどうだろうか。その「使命」実現を目的とするならば、企業的な採算に見合わなくとも、活動することはたくさんある。つまりより高度な技術を求め、環境的な目的に合致させるために、寄付を求めて人々に訴えることも出来るし、行政から何らかの助成を引き出すことも可能である。
 
 しかし、より強くその「使命」を意識するなら、やはりNPOである必要がなくなる。政治的な目的(政権の獲得、政策への介入)をもって、政党もしくは政治団体を志向する方が「使命」の実現には遙かに有利だったりするからである。
 
 NPOの領域はこの企業と政治の中間(スキマ)に実に曖昧な形で位置している。
 
 NPOの行う事業は、収益的な事業もあれば、社会的な課題の解決をかかげる場合もある。たとえば「環境保全」を目的としたNPOでも、実際にやっていることはバザーなどの収益事業のみというのもまったくかまわないのである。アメリカの環境団体のように、派手なパフォーマンスで世論に訴え、ダイレクトメールで寄付を募るのもいいだろう。
 
 肝心なことは、市場経済的に収支のバランスが成立して活動を継続的に保持するから、法人格の取得の必要が生じるのであって、何らかの事業、誤解を恐れず言えば企業的(経済的)な仕事をしないならNPOになる意味はないということである。その意味で、事業化する分野を自分で調査、研究、開発し、具体的な成果を積み上げて、組織の活性化を図るなどの技量が必要となるというわけなのだ。
 
どうやってNPO
 
 今度はそうした組織の編成や手法の問題(7箇条の2,4,5,6)を「公と私」の縦軸で考えてみよう。
 
 NPO法人は「営利を目的としないこと」、つまり非営利のセクターであるということが大前提になる。
 
 営利を目的としないということは収益事業をやってはいけないということではない。それは「利益があがってもそれを構成員で分配せず、また解散時にはその財産を国等に寄付する」こととされる。要するに組織の財産を構成員の財産として処分することや、私有財産と見なすことはできない、といっているのだ。もちろん利益を上げて、報酬や給与として社員に支払われることには(役員には制限があるが)なんら問題がない。
 
 このほか、法制では組織の構成、財政報告、情報公開などの手法が事細かに決められており、一定規模以上のNPOとなれば、事務手続きを行うだけで専属の事務員を必要とするほどの事務量になる。実際にやってみるとものすごくめんどうくさい。どうしてこんな手続きが必要なのか。それはNPOの公的性格が強く意識されているからである。
 
 日本では公共的な領域は、国家・行政を除けば、非営利部門が担うとされる。法人とは個人に認められる諸権利を、組織に与え一個の人格と見なす考え方だが、学校法人、宗教法人など独自法で定める以外の「公益」の法人を規定しているのが民法34条だ。具体的には公益法人、社会福祉法人、農協、毛色の変わったところで生協など協同組合が含まれる。これらはすべて監督官庁の許認可(NPOのように認証ではない)で成立し、基本的には行政の下請けとしての位置を与えられ、特権的な税制をうけたり、ときに天下りの機関になったりもする。
 
 公益法人(財団法人・社団法人)は収益事業への課税において「みなし寄付」が認められ、法人税には軽減税率が適用され、預金金利などの金融収益も非課税となる。なお社会福祉法人の場合は、みなし寄付の範囲がより大きく、介護保険事業など非課税である。
 
 NPOも原則非課税だが、法人税法上の収益事業(33業種)は課税対象とされ、住民税の均等割税も支払うことになる。この差別的な待遇は日本の特徴といえるのだが、既存の公益法人擁護のためか、NPOは私人に近い扱いを受ける。
 
 これが公と私の狭間にあるということの意味である。私人なのかと思えば私的財産は認められず、報告義務や手続きに縛られる。公人かと思えば税法上の優遇処置は受けられないのに、私人としての自由さもない。このどっちつかずの中途半端な形態がNPOということになる。
 
 中途半端なスキマ産業としてのNPO。こうした定義は、否定面が強調されるように受け取られるかもしれないが、スキマ産業は、言い換えればベンチャーである。専門的な領域もあるが、どちらかといえばその手軽さを活用して、仲間づくりや、問題を広く外へ訴えたりする組織の編成や手法を得意とする。そんな活動のあり方がNPOの特徴として浮かび上がってこないだろうか。
 
 もう一つの特徴は行政を動かしやすいことだ。今、地方自治体はアウトソーシングに血道をあげて、何とか、行革=小さな自治体づくりを成功させようとしているから、「非営利」、「市民的」で「公共的」なイメージを持つNPOにとっては委託事業や、指定管理者となるチャンスでもある。もちろん正面から訴えて、助成を引き出す道もある。
 
 「7箇条」のいう多様な財源とは、寄付もあるが、こうして行政や企業とタイアップしている事例がほとんどだろう。「官との協働」など多くの人が未経験だからためらいはあるかもしれない。しかし、仲間づくりやネットワーキングなどの領域は、市民運動や社会運動が経験していることと何も変わらないし、むしろ専売項目だといえる。
 
 図に立ち返ってみてみれば、どちらかといえば「政治」の側に近く、どちらかといえば「私」の側に近くて自由度が高い。そんなNPOをわれわれが目指していくことは可能ではないだろうか。
 
どこからきたのかNPO
 
 非営利部門の諸組織がどのように成立しているかは国によって違うので、その自由度や形態は実に様々だが、一般的に政府・行政の役割が大きければ、非営利部門の役割は小さく、国家行政が縮小を図れば、非営利部門が伸張するという傾向は共通である。
 
 アメリカなどはもともと政府の権限は限定され、非営利部門は自ずと成長したが、日本は政府・行政の権限が大きく設定されており、非営利部門は限られた領域に押しとどめられていた。NPO法などが登場したのは、新自由主義的な「小さな政府」路線との関係で、行政が「民間でやれることは民間で」とアウトソーシングしていく領域に、企業では担えないスキマが生まれることを懸念して、そこをNPOなどに下請的に埋めさせようという意図が読みとれる。
 
 従って、行政にとってはNPOをいかにコントロールするかが課題だが、NPOにとっては単なる下請けを越えて、社会の中にいかに役割と位置を占める活動を拡大していくかが課題となる。そこで税制の優遇化、制度の自由化などは不可欠の要求項目である。
 
 とはいえ非営利部門の原点は、政府・行政の不備や非力、を民衆自身の努力によってカバーしていく、その意味では「スキマを埋める」作業にあったことは確認しておくべきだろう。
 
 こうした非営利組織の原初とでもいうべきものを、ここでは資本主義発生の端緒でもあったイギリスの、協同組合運動の発祥として世界に知られるロッチデール原則に立ち返って見ることにする。
 
 話は1844年にさかのぼる。

 産業革命を経て発展したイギリス資本主義が、エンゲルスの『イギリス労働者階級の状態』に見られるような、小生産者の没落による失業と貧困に苦しむ時代を迎えていたころである。イギリスの協同組合運動は、そういった社会状況のなかから労働運動や社会主義と並行して起きた。
 
 ランカシャー州ロッチデールで、世界初の協同組合である「ロッチデール公正先駆者組合」が28人の紡績工らによって設立されたが、ここを発祥の地として後に確立していく考え方が「ロッチデール原則」と呼ばれ、協同組合の世界的な運動に影響を与えていくのである。
 
 すでに伝説となっている物語は次のようなものだ。
 
 最初に組合を立ち上げた紡績工たちは、自分たちの一か月分の給与1ポンドを出し合って、小さな店を開くことから始めた。取扱い商品は小麦粉、オートミール、バター、砂糖の4商品だけ。なおかつ開店時間も月/土曜の晩に限られた。ところが、同組合は著しい成長をみせて、わずか12年程度で組合員数50倍、基金総額約400倍にまで成長をとげる。1867年には図書室など教育施設まで備えるセントラルストアをオープンさせるのである。
 
 先駆者組合設立当初1844年の最初の規約には、「自立した国内植民地の設立」を目的としており、「国や行政に、企業に依存するのではなく、必要とあらば自らの手で働く機会を作り出す。必要とあらば台地を耕し、自らの手で食料も安定確保しよう」(内橋克人『共生の大地』)という思想が息づいていたという。そのために「一人一票の議決権」「現金での取引」や「公正で品質の良い商品」など今に生きる数々の「原則」が取り決められていくのである。
 
 有名な「万人は一人のために一人は万人のために」というスローガンも、協同組合運動で使われたのが最初だそうだ(『新版協同組合事典』家の光協会四〇頁)。これらはロバート・オーエンを祖とする社会主義者たちの考え方だった。
 
 先駆者組合が案出した原則とその世界的な変遷については割愛させていただくが、ここでは「対出資金利子の固定/制限」と「購買高配当」といった原則だけは紹介しておこう。
 
 「対出資金利子の固定/制限」は、出資金に対する利子を固定し、売上高が増加しても利子配当の高騰を制限する仕組みである。売り上げの増加で得た資金は共同の利益のためのフォンドづくりや投資にまわすためで、「他の組合援助」のほか「教育施設」や「禁酒ホテル」建設など福利厚生も想定された。
 
 もうひとつは「購買高配当」。現在のポイント制のようなものだが、買ってくれた人には利益の一部を還付する仕組みで、広告費や中間商人を排除するぶんの利益を利用者に回して、購買インセンティブを高めたわけだ。
 
 このようにロッチデール原則は、一方で市場経済に適応する形で協同組合運動を自立させながら、他方で「公正」を社会的に貫徹させる形で資本主義経済に対する批判を展開したことに特徴があった。貧困や失業を乗り越えて相互自助を遂げていこうとするソーシャル・アントレプレナー(social entrepreneur)精神は、まさにここに息づいていたのである。
 
 日本のNPO法は「小さな政府」路線との対応で、行政の都合から生まれたものであり、生き延びていくためには、おそらく、ほとんどの場合に、行政の下請的な性格は免れない。そういう意味では、NPO本来の特性を備えた非営利部門としての組織、つまり自立した共同体でありながら社会改革も提案できるような要素を持った組織はまれであるというのもうなずける。しかし、「小さな政府」がもたらす、様々な社会的矛盾を改革していくために、政府・行政機関とは一線を画したNPOが成長していくならば、その果たすべき役割はけして小さくないのである。
 
NPOはどこへ行く
 
 国家は、家族その他の中間的諸組織から成り立つが、そこでの支配権はだれが握っているのか、これは政治学の大きなテーマだった。人間の社会生活の営みは、家族やその属する共同体を起源とするという考えにそう異論はないだろう。だから家族を支配するのは、国家レベルの一般的な原則ではなく、家族や共同体に固有の原理でなければならないという考えが成り立つ。
 
 ここから「補完性の原理」(Principle of subsidiarity)という命題が成立する。
 
 すなわち人びとの生活の問題は、その生活に最も近いところにある共同体が決定し、問題の解決を図らねばならない。ときに、その手に余るような場合にのみ、さらに上部にある連合的な共同体の手に委ねられるが、だからといって、下位レベルにあるものをコントロールしようとしてはならず、かかわりは補完的であるべきだ、とする考え方である。
 
 これに対し、国家にこそ支配権を認め、唯一人格を認めるというのは、今なお、国際社会の主流をなす考え方である。そこでは、家族及び共同体など中間的組織は従属した位置にしか置かれない。
 
 しかし、近年こうした国家主権の考えは大きく揺らぎ始めた。なにより地球環境問題が国境という枠にとらわれていては解決不可能であることを突きつけたし、グローバル化する情報、経済があたらしい時代を引き寄せた。ここにいたって国際協力のあり方は、大きな変化を見せてきたのである。
 
 その典型的な出来事は、いうまでもなくEUの成立である。「補完性の原理」が盛り込まれたマーストリヒト条約は、ヨーロッパ11カ国の外交・安全保障政策の統合、経済・通過の統合などのほか、超国家機関としてのEU設置を正式に発足させたのである。
 
 ギデンズは『第3の道』で次のように書いている。「サブシディアリティは、超大型国型でも単なる自由貿易圏型でもない政治的秩序を構築するために理念であると同時に、国家の影響力を刷新するための理念でもある」(邦訳128頁)。
 
 そもそもは、EUの枠組みに吸収される事によって、それまで各国が行って来た文化や政策の独自性が制限されるのではないかという不安や不満に対応するため、「それぞれの国で出来る事は極力その国でやってもらう。国のレベルでは不可能な、EUで行うしかないと判断される問題についてのみ、EUが権限を行使する」という原則を打ち立てたことにはじまる。
 
 さらに、この考え方はEUと加盟国の関係のみに留まらずに発展し、国と地方自治体との関係にも、地方自治体と地域あるいはNPOとの関係にも適応されていく。いまやヨーロッパ統合の進展と共に、地域や都市の役割の増大といった傾向がさまざまな形で起きている。まさにローカル化はグローバル化に対応して進展し「国家の影響力を刷新」しようとしているのである。
 
 イギリス、ブレア政権のシンクタンクのひとつ「DEMOS=デモス」が、97年に発表した報告書「The rise of the social entreprenerur=社会企業家の台頭」によれば、問題は次のように発想されている。
 
 「人々は、福祉のためにもっと税金を払うことには抵抗する。しかし、社会のセーフティ・ネットが失われることにも反対する。」
 
 周知のように、既存の社会システムがある種のこう着状態にあると、人びとには理解されている。しかしサッチャー政権が行ってきたように、コストを削減し、サービスを低下させるだけでは、社会の不安をかき立て、人びとの同意は得られない。
 
 ではどうするのか。

 「人々を貧困と依存の状態にとどめおく現在のシステムとは違う、問題解決型の福祉システム、アクティブな福祉システム」(引用は『社会起業家』PHP新書、町田洋次から)を作り出さなければならない。デモスが「社会起業家」に注目した理由はまさにここにある。社会の現場にあって、人びとの生活に最も近いところで、その矛盾を実践的に解決していくために、調査し、研究し、提案をしていく組織が必要だ。
 
 既存の社会システムの閉塞性を打破していくために、政治権力を獲得して社会変革を目指すという発想も必要なことである。人々の不満を政党が上手に吸収すれば、サッチャー保守党が破れたように、政権交代は可能かもしれない。
 
 しかし、新しい社会システムを構想できなければ、社会のニーズにこたえたことにはならない。だからこそ、あたらしい発想で、新しいシステムを築き、実践的に問題解決を図っていかなければならない。このような考え方は、ブレア政権発足時の特別顧問団に共通する考え方だったようだ。
 
 日本でこの役割を担いうる組織の一つがNPOであることは間違いない。
 
 行政が撤退していく福祉、教育、環境、まちづくりといった分野の空白に、私人に近い自由度を最大限に生かし、そのスキマを埋めるかのごとく活動を展開し、行政から資金を得てもけしてそれに甘んじず、自立の精神を貫き、社会変革のための提案を可能な限り人びとの生活に近い分野から行っていく。それができるのもNPOの特徴に他ならない。
 
 

2006年09月08日

水車小屋の夢

 水車小屋の夢
 
                  ふじみ野市議 鈴木啓太郎
 
 小学生の頃、私の一家は東京三鷹市の井の頭で暮らしていたのですが、隣に住んでいた大家さんが飯塚さんという方で、流通関係の会社の社長をしていました。
 
 飯塚さんは15年前、仕事から退くと、居宅を処分して、山梨のとある山間部に土地を求め、農業をやりたいと申し入れます。地域の人たちは相当にとまどったうえで、飯塚さんを受け入れることを決めます。
 
 そこから飯塚さんの新しい人生が始まるのですが、私は3年に一度、2年に一度と訪ねていくうちに、徐々にその魅力に引きつけられ、居心地の良さを味わっていくようになりました。
 
 飯塚さんはまず、敷地を流れる小さな沢を利用して水車小屋を建てました。その水車には二本の杵と木製の歯車が付いていて、石臼を回します。杵で米や麦を搗(つ)き、臼で粉をひくことができるのです。そば打ちの免許皆伝級の腕前を持つ飯塚さんは、そばを栽培し、臼でひくことが何よりの目標でした。電気を使う製粉器では、味が壊れてしまうということもありましたが、水車という日本古来の動力を生活の中に復活させたかったのだそうです。
 
 周囲の人の薦めもあって、田んぼを借り、古代米である黒米を作付けします。農薬を使わず、田んぼにはワラを敷いて、冬も水を入れ微生物を育てる農法を採用しました。こうしてできた黒米はすぐそばの「道の駅」で特産品として売られるようになりました。それから大麦の栽培、炭焼きと挑戦を続けていくのです。
 
 80歳になった飯塚さんは、「あと5年間生きていたら」と私に語ります。「下流の町場にある水車を復活して村人が活用できるようにしたい」。そのために各地の水車を訪ね、技術を掘り起こし、若い宮大工を説得して、その独特の工法を体得してもらうように働きかけていきます。
 
 飯塚さんの田舎暮らしは、一見すれば普通の生活ですが、その気持ちの中にはいつでも「やりたいこと」でいっぱいです。私なりに解釈すると、ここ半世紀の間に私たちが失ってしまった生き方、自然とともにあった暮らしの良さを、次世代に残したいという想いを強く感じます。採算を度外視する姿勢は、独りよがりの自己満足に見えるかもしれませんが、ひょっとすると、これは世の中を変える力になるのではないか。そんなふうに、私にも思えるようになりました。
 
 最初はちょっとした手伝いのつもりだったのですが、そういう想いが強くなると、夏に一度が、毎月に一度になり、いまでは時間の許す限り通って、なれない農作業の世界に引き込まれてしまうことになりました。
 私は地方政治に身を置いて、議論や書類のやりとりで世の中をよくするために働く毎日ですが、飯塚さんのように、生きることで社会に係わる仕方も大切ではないかと思っています。
 
 

2006年09月07日

NPO法と社会運動の今後

NPO法と社会運動の今後
 
 冬になると河川や湖などで目立つようになる雁、鴨、鷺、鶴などの野鳥の大部分が、冬を日本で過ごす渡り鳥だということはみなさんご承知のことだろう。どのくらいの野鳥が海を渡ってくるのか、環境庁は毎年調査結果を明らかにしているが、実はこの調査活動は、環境庁の委託を受けた民間のボランティアによって担われている。
 今年の「ガン・カモ類一斉調査」は例年どおり、関東以北に大雪が降った一月一五日に実施されたが、わたしもこれに参加した。
 
民間ボランティアに依存する行政
 
 私たちの担当したエリアは、近郊河川約一五キロの区間だが、深いところで膝下に達する雪の中を終日歩き回り、留鳥であるカルガモや、ヒドリガモ、尾長ガモ、コガモなどシベリアから海を越えてきた野鳥たち一〇〇〇羽近くをカウントした。このほかにも、大型のアオサギやオオタカなどレッドデーターに絶滅危惧種として数えられる野鳥を見ることができて、残された貴重な自然を守ることの大切さを改めて確信した。
 しかし、ここでいいたいのは環境調査の大切さについてではない。環境庁の実施する調査活動が、民間のボランティアによって担われているということなのだ。
 環境問題に限らず、こうしたボランティア活動の団体をNGO(Non Government Organization)=非政府組織、もしくはNPO(Non Profit Organization)=非利益組織と呼び、社会福祉や国際援助活動などの分野での活躍が増えている。ボランティア後進国といわれた日本でも阪神大震災後、一年間に一四〇万人がボランティア活動に従事したといわれ、国内でのボランティア活動が大きく見直されるきっかけにもなった。
 ところが昨年の地球温暖化防止京都会議(COP3)には、世界各国から三〇〇〇人のNGOが参加し、NGO活動の国際的水準を私たちにも見せつけた。そこでNGOの活動家は、政府代表と同席し、ロビー活動や会議場での発言など、会議の意志決定に対して影響を与えるような活動を繰り広げた。NGOが、会議の席上で政府代表と論議をかわすというのは世界の趨勢だという。
 これに対して日本のNGOは何ともお寒いのが実状だ。
 日本政府のNGO排除の姿勢もかたくなではあるが、その現状を越えて、政府の意志決定に参与しうる影響力を持つNGOはほとんどいない。今のところ、ボランティアといえば私たちの「ガンかも調査」のような行政の下請け的活動をするのがせいぜいである。この違いはどこにあるのだろうか。
 この点を考えていくために、まずは自社さ政権の合意事項のひとつでありながら、なかなか成立しない市民活動促進(NPO)法の動きからみておくことにしよう。
 
NPO法案の国際比較
 
 それでは、現在の法案ではどのような問題点を見ておくべきだろうか。
 まず、市民活動の範囲から「政治・宗教活動の除外」を明文化していることだ。これでは沖縄の基地撤去を求めたり、政治家や官僚の汚職を追及する、あるいは諌早干拓の中止を求めたりするような、政治、行政への批判などは「市民活動」には含まれないとみなされる可能性がある。
 また、法人格取得のためには、都道府県が「認証」の権限をもち、場合によっては「立ち入り」調査したり、認証を取り消す権限ももっている。所轄官庁の思惑次第で操作可能となり、市民活動の促進どころか、管理統制型の法律だという批判があるほどだ。
 さらに、非営利民間団体がこうした法人格を取得するには、現行民法との整合性を問題にせざるを得ないため、市民団体が一番必要としている税法上の優遇措置、とくに寄付金控除や郵便物の低料金化などは盛り込むことができないのである。
 これらの点は、国際的なNPO法と比較すると問題点が浮かび上がる。たとえばアメリカでは法人化は州法で定められるが、書類を提出さえすれば、認証されるというのがほとんどだ。税金免除も、非営利で慈善的事業ならば申請に応じて団体のものだけでなく、個人の寄付についても免税となり、それが所得の五〇%まで認められている(米国歳入法)。
 英国では、一九六〇年のチャリティ法で、チャリティ委員会に市民活動団体を登録すれば公益活動団体として認められ、同時に税制上の優遇処置を受けられる(所得税・法人税免除、資本利得税、不動産税も非課税)。さらにコブナント(捺印契約)によって、三年以上の寄付を約束すると寄付にかかった税金(約二五%)が団体に還付されるという仕組みも作られている(『市民公益活動』佐野章二・公人の友社)。
 こうした税制面での優遇策によって、一度NGOなどに寄付すると、四月の税制申告前にはNGOからの低料金郵送のダイレクトメールが殺到する(『アメリカは環境に優しいのか』諏訪雄三・新評論)のだそうだから、資金面で相当のメリットがあることが分かるだろう。
 これに対して、日本のNPO法の場合は監督官庁が、内容に立ち入ったり、報酬を受け取る役員の割合を定めたりと、行政側の介入が過度に規定されたものになっているのである。社民党などでは、民法の一般法の改正まで展望することはできない代わりに、付帯決議で将来民法改正を二年後に見据えるという条項を盛り込もうとしているようだが、自民党サイドの抵抗によって実現されるかどうかは分からない。
 ともあれ、こうした現状においてでも、とりあえず法案が可決されれば、幾多のボランティア的な市民活動団体が、社会的に認知された「法人」として登場するのは間違いない。そしてそのことは、社会的にはどのようなインパクトをもつのだろうか。
 この与党案がまとめられていく経過を見ると、自民党は、ボランティアに行政の下請け機関としての活動を求め、市民活動団体の管理・監督を法案の骨子においたのに対し、社民党、民主党はできるだけ幅広く市民団体を法人に取り込んでいくことに眼目をおいているという違いがわかる。
 ここで思い出しておくべきなのが、日本政府によるNGOの意図的な育成政策だ。
 九二年六月にブラジル、リオで開催された「地球サミット」で日本政府はこっぴどい批判を受けたことがある。政府代表からNGOを排除したからである。日本政府が正式に国際会議にNGOの代表を加えたのは、この後、九四年九月の「国際人口・開発会議(カイロ会議)」からだ。この会議を前に、外務省は国内のNGOと会合を開き、今後はODA(政府開発援助)について「プロジェクト段階からNGOとの対話を強化する」という言葉を、代表演説の中に盛り込むと伝えたという(『共生の大地』内藤克人・岩波新書)。
 ここから政府の意図的なNGO育成政策が始まるのだが、その結果「海外協力」活動をしていると称する日本のNGOには、JICA(国際協力事業団)のプロジェクトによる「半政府組織」が多くを占めており、ODA資金に依存するものがほとんどだ。
 昨秋の京都会議で政府は環境ODAなる新たな途上国援助構想を打ち上げたが、日本のNGOで、こうした政策を批判し得る団体は、グリンピースや反原発団体を除いて皆無に等しい。NGOの大部分が政府計画へ無批判的に参加し、事業協力をおこなう。つまり「ノン・ガバメント」とはいえない代物になっている。
 周知の通り、JICAは大型の開発事業の計画、開発を担当しており、日本のゼネコンの収益事業に貢献しているのが実態だ。だからもちろん「ノン・プロフィット」ではない。
 政府資金を使い、企業の収益事業に参与するNGO・NPOなど、そもそも論理矛盾であり、国際的には「ニセNGO」としての評価しか受けない。日本のNGOの大部分は、国際社会のダミーとして、いわば「上から」つくられたのであって、反政府的なムーブメント形成が巧妙に回避されているのである。
 こうした日本型NGOの性格を考えたとき、NPO法案成立とともに登場するNPOもまた、行政の下請け業務を担うことを骨子とするだろうということは容易に想像しうることである。高齢化社会を迎えて、資金面でも人材的にも手詰まりに陥った行政当局が、民間活力のひとつとして、「ボランティア」を当て込み、行革の一環としてボランティアの活用をてぐすねひいて待っているというのも実状なのである。
 では私たちはこうした現状に踏まえて、冷ややかに法案の推移を見据える以外ないのだろうか。
 
「政府の欠陥」と「市場の欠陥」
 
 NPOが早くから社会的に認知されてきた欧米諸国ではいささか事情が違うようだ。
 フィランソロピーが社会的公正の一手段として採用されてきたという歴史的伝統もさることながら、それは「新たな社会運動」という評価を与えられている。何が「新しい」のかといえば、旧来の冷戦構造のもとで成立した運動、たとえば「ベトナム反戦」などに比較して「新しい」とされるのである。
 さて、この社会運動の特性を国際的政治の脈絡でとらえ返すならば、八〇年代以降のネオ・リベラリズム=新保守主義政治から見ていくべきだろう。新保守主義は、「ケインズ主義的な」アメリカやヨーロッパの公共投資、福祉政策を、政府財政逼迫の根源として批判し、民間活力の登用、減税、規制緩和などを掲げて登場した。
 新保守主義のイデオローグであるフリードマンは、「福祉型国家」を「ニューディールとフェビアン協会の社会主義」と論難する。その場合「福祉型国家」とは二九年恐慌への対策として実現された国家的な需要創出による公共事業投資といった国独資政策や、他方、冷戦期に「社会主義」への対抗上からも実施された社会福祉政策の充実という国家政策を指している。
 これらの政策が「市場の欠陥」に対する国家的な経済への介入、規制を特徴としているとするならば、新保守主義は、福祉国家が必然的に生み出す国家予算の増大、官僚機構の肥大化、財政赤字の拡大といった「政府の欠陥」を批判するものだった。新保守主義にくみせずとも、現代日本の「官僚主導」政治や、ムダの多い環境破壊的な公共投資など「政府の欠陥」の指摘には、それなりの説得力があるというべきだろう。
 しかし、一方で八〇年代の新保守主義による福祉政策への攻撃は、貧富の差を拡大し、ホームレスや失業者の増大といった社会的な荒廃をうみだした。「政府の欠陥」を批判しても、それは「市場の万能」を証明したわけではない。それは改めて「市場の欠陥」を知らしめたのである。
 これらのことは、アメリカでの共和党の敗北、クリントン政権の登場や、イギリスでの労働党の政権奪回の要因になった。周知のように両者とも新保守主義的政策を完全撤回したわけではなかったが、そのことは一方で、民間活力としての市民参加、情報化、分権化を押し進めるという「効果」をともなったのである。
 特定の政治的イニシアチブが、意識的に市民参加、情報化分権化を「押し進めた」というのは正確な言い方ではない。福祉政策の後退という現実に直面して、七〇年アースデー以降の自然発生的な市民活動が、公共サービスの撤退というエポックを埋め込むように成長したのである。
 この様子はアメリカのジャーナリスト、ハリー・ボイドの『裏庭の革命』(一九八〇年)が指摘している。ボイドは新保守主義の台頭の一方、エリートと専門家がもてはやされる風潮に抗して、新しい社会運動と民主主義が「国中に波立ちはじめた」とのべている。具体的には、住民のコミュニティ組織、協同組合、自発的な女性の検診、地域メディア、健康のためのプログラムなどだ。
 ところで、ここで注目したいのは、これらの運動が「市場の欠陥」にたいして「政府の万能」を求めたのではないという点だ。
 たとえば福祉政策の後退に対して旧来のごとく「政府が保証すべき」という要求を掲げたらどうだろう。それだけでは、改めて「政府の欠陥」を招くことにしかならないのではないか。では「市場の欠陥」も「政府の欠陥」も同時に越えていくにはどうしたらいいのか。
 第一に、旧来主要な生産諸力とみなされていない家庭内労働、福祉労働、慈善活動、健康保持、自然保護といった非営利的な活動の社会的認知をすすめ、促進すること。そのために「スーパーファンド法」(八〇年)や、CERES(環境に責任を持つ経済活動実現のための協議会)による「バルディーズ原則」の採用など、企業に対する積極的な規制、また「情報自由法(FOIA)」「サンシャイン法」など政府情報の徹底的な公開、さらには先に述べた税制面でのNPOへの優遇処置といった社会的システムの転換である。
 ここではアメリカの事例のみを取り上げたが、歯止めなき失業者の増大に見舞われているヨーロッパなどにおいて、非営利部門の拡大はもっとも重要視されている。問い直されているのは、旧来の生産指標による経済評価であり、生産力パラダイムそのものでもあるといえるのだ。
 以上から明らかなように、国際的なNGOは、その名の通り、国境や国家にとらわれないノンガバメントであり、企業的収益のみが社会的富を形成するという考えを否定する、すなわちノンプロフィットであることが通用的なのだ。
 欧米諸国において社会運動が影響力を行使し、組織的にも政治的にも発展したのはその運動のもつ社会的な妥当性、正当性ゆえにほかならない。既成の議会や政党、労働組合といった諸組織が影響力を失っていくのとは反比例して、それは草の根の広がりに支えられ、そのうえで専門性、情報性、独自性といった特質をもつに至った。
 「アメリカでは、政府でも企業でもない非営利セクターが確固たる分野を形成していて、その数は全米で一〇〇を越える。大学、病院、教会、環境保護団体、小規模な住民団体までNPOで働く職員の数は、連邦政府と州職員を足した合計よりも多く、事業規模はGNPの七%、計算の方法によっては一五%にもなるというのだ」(『共生の大地』 内藤克人)。
 NPOが社会的に影響力を拡大したことで、どのような効用が生み出されたのだろうか。
 「市民活動が自由に組織されてそれが分権的に多様な公共サービスを提供すれば、中央の代議制と官僚制は必要性が少なくなる」。
 「ここでは市民は…直接に〝公共〟に参加する。必要と思う〝公共〟活動を直接に組織する。…多数決によって少数派が封じられない。社会には多様な価値観と活動が保障、促進される」(同)。つまり市民参加、情報化、分権化をキーワードとする公正的正義が生み出されたというわけだ。
 以上を述べただけでは、アメリカを美化しすぎているとの批判を免れないだろう。またNGOやNPO一般が「理想的」な存在などということもあり得ない。組織の巨大化とともに官僚的腐敗や予算消化の方法など、それにはたくさんの問題点が指摘されている。アメリカの環境NGOなどの運動の行き詰まりも様々な場面で指摘されている。ただ私たちとしては、次に見ていくようなハーバーマス的視点において、二〇世紀の物質文明を越えていくひとつの方途をここに見いだすことも可能ではないかと問いたいのである。
 
日本型公共性の構造転換を
 
 ユルゲン・ハーバーマスの『公共性の構造転換』(未来社)は、一九六二年の発表以来「公共性」という概念が政治学、社会学で独特の意味が与えられることになったほどの古典的著作である。ここで問題にしたいのは、一九九○年にこの本の新版を発行する際、ハーバーマスが新しい序論を書き加えたことである。いうまでもなく、八九年のヨーロッパの変革(ハーバーマスのことばで言えば「国家社会主義の崩壊」)を経て、それは加えられた。
 ハーバーマスは、ルソーの「一般意志」を「非公共的な意見を根拠にするルソーの民主主義は、結局のところ、世論操作的な実力行使を必要とする」とこの本のなかで批判する。何が真理であるのかを決めるのは、論議する者の間で形成される公共的コンセンサス以外ではない。しかし、そこで「論議」するものと想定されていたのは、旧版では「民主化された団体や政党」に限られていた。これにたいして、ハーバーマスは新版序論で次のような追加をおこなうのである。
 「《市民社会》の制度的な核心をなすのは、自由な意志にもとづく非国家的・非経済的な結合関係である。もっぱら順不同にいくつかの例を挙げれば、教会、文化的なサークル、学術団体をはじめとして、独立したメディア、スポーツ団体、レクリェーション団体、弁論クラブ、市民フォーラム、市民運動があり、さらに同業組合、政党、労働組合、オールタナティブな施設にまで及ぶ」。
 「問題となっているのは意思形成をおこなう結社(アソシエーション)である」。それは「ジャーナリズムの影響力を通じて政治的な効果をもたらす」。それは公共的コミュニケーションに「直接参加」し、「活動を計画し実例をもって討論に寄与」するというのである。
 非国家的、非経済的な結合関係を持つ結社が、公共的コミュニケーションに直接参加するというハーバーマスの想定は、NGO/NPOと呼ばれる社会運動の今日的状況と大きく変わるものではない。この点について、そう異論はないはずだ。また、現在の私たちの運動に引きつけてみても、私たちのいう「知的共同体」に連なるものであるとみることもできるだろう。
 さて、以上にふまえて、NPOをめぐる議論に立ち戻ることにしよう。
 「市場の欠陥」を管理的な国家行政のシステムで越えていこうとする福祉国家社会にあって、これまでの私たちは、福祉行政のクライアントとして、受給者的存在であったということができる。そこで私たちは、「公益」の義務を負うのは行政、すなわち権力の領域であり、納税という義務を果たしている限り、自己の権利を主張すれば事足りると考えていた。
 ところがいまや福祉行政の決定的後退、さらには高齢化社会の到来や、環境的に循環型でしか成立しない都市生活の時代を迎えて、市民生活の存続すらが脅かされるにいたっている。かくして私たちは、官僚腐敗の追及、福祉後退への論難、給付行政の実現を求めるだけではもはや不十分な時代にたち至っているともいえるのである。
 阪神大震災などの経験知を越える災害は、被災地で無力化した行政の限界を何よりも明らかにした。この限界を突破したのは住民の自主的な活動であり、相互扶助や自治活動の展開である。
 沖縄・名護市の住民投票のごとく、地域的な課題を住民の意思で決定するという分権化の進展も各地で見られる。加えていえば、福祉行政の後退のなかで、相互幇助や共済を旨とする生活ホームづくりや、ワーカーズ・コレクティブなどの試みも頻繁に生まれている。
 それらのひとつひとつは、任意の市民団体にすぎないが、こうした任意の団体相互に成立する議論のもとではじめて「公共性」は存立する。そこでのコンセンサス形成が事態を初めて解決しうるのである。
 旧来の日本的給付行政のもとで、あらかじめ公共的な団体として認知されていたのは、たとえば町会、自治会といった地縁的住民組織である。これらは形骸化し公共的性格はほとんど喪失している。ただ、これらは給付行政にとっての下請け的利用の対象でもあったのであり、そこでの行政的な慣習はNPO法などの法案形成に顕在化しているといえよう。しかし、そうした「行政権力や貨幣」といった権力の制動をつきやぶる、新しい社会運動の可能性を、この先に見いだしていきたい。
 
解説・NPO法の内容
 
 与党法案である「市民活動促進法案」の第一条からその内容を確認しておこう。
 「この法律は、市民活動をおこなう団体に法人格を付与することなどにより、ボランティア活動をはじめとする市民に開かれた自由な社会貢献活動としての市民活動の健全な発展を促進し、もって公益の増進に寄与することを目的とする。」
 では「市民活動」とは何か。この法律では別表を設けて「市民活動」を一二項目に分けている。
 そこでいわれている市民活動とは次のことを指す。
 ①保険福祉の増進を図る活動、②社会教育の推進を図る活動、③まちづくりの推進を図る活動、④文化、芸術またはスポーツの振興を図る活動、⑤地球環境の保全を図る活動、⑥災害時の救援の活動、⑦地域安全活動、⑧人権の擁護または平和の推進を図る活動、⑨国際協力の活動、⑩男女共同参画社会の形成の促進を図る活動、⑪子どもの健全育成を図る活動、⑫以上の団体の活動の連絡、助言、援助の活動というものだ。
 

2006年01月01日

白神山地

白神山地へ

鈴木 啓太郎


 広大なブナの原生林で世界遺産にまで登録された白神山地には、その中心を流れる赤石川と、追良瀬川という二つの大きな清流がある。

 私はこの夏、追良瀬川を旅をすることができた。わずか三日間、行程19キロ、標高差900?。の旅だったが、ダブついた腹まわりが気になる中年オヤジには、久々に充実した時間だった。



7月16日 
  朝8時30分に、自宅の電話が鳴った。

 「もしもし、鈴木啓太郎さんですね・・」。やや訛のある声が電話口でひびく。「深浦の森林管理センターですが・・」えっ、なんだ?とまどうまもなく事務的なことばがつづいた。「入山許可については平成16年より申請のみで、許可証は発行しませんので・・」そうだった。そんな話も聞いていた。迂闊にも私は往復はがきで白神山地への入山許可証を求める手続きをとってしまっていたのだ。

 相手の声は質問に変わる。「こちらははじめてですか?」「はい」。「標識等は一切ありませんがご承知ですか?」「はい」。「登山の経験はお持ちですね?」「まあ、それなりに」。「現地の天候は雨です。では気をつけて」。電話の内容はそれだけだった。

 かの入山許可書には焚き火禁止だのイワナを捕るなだのと書いてあってすこぶる評判が悪いのだが、幸いそんなことに彼はふれず、私の気分を害することもなかった。

 電話を終えてふとわれに返って、「体力には自信がありますね?」と聴かれていたら、なんと答えたのだろうということがアタマをめぐった。川をめぐる旅にそれほどの不安はない。知識や経験は充分にあるつもりだ。問題はただひとつ。それは体力である。三日分の食料と装備を背負って、この渓を歩き通すことがいまの自分にできるのだろうか。

 10年前ならいざ知らず、近頃の体力の衰えは否めない。もちろん日々のトレーニングなんてなにもやっていない。したがって体重だけはどんどん増えた。だぶついた身体に腹まわりの脂肪がずしりと重い。脚力もよわくなった。なにより視力が落ちた。普段かけている遠近両用のめがねでは、石から石へ渡り歩くのがおっくうになる。昼でも暗がりに入ったり、夕闇で光が落ちるとよくコケる。距離がうまくつかめないのである。こればかりは経験しないと分からない。老いてくると、私も若いときには想像がつかないことが起きるのである。

 白神にいくということが決まってから、密かに私は追良瀬川下流でアユを釣ることを考えていたのだ。どちらかといえばアユで有名なのは赤石川で、「金アユ」と呼ばれて珍重されているが、赤石川にダムができて、白神周辺の伐採があって、水質はがくんと落ちた。当然アユの質も落ちた。ところが追良瀬川は河口付近の集落以降人家がなく、大きなダムもない。マニアの間では「プラチナアユ」といって近年の注目株なのである。ところが問い合わせると、今年はアユの遡上が少なく、時期的にも早過ぎるという。いまきてもムダですよ、と観光担当の職員は素っ気ない。アユを釣るならさほどの体力はいらないが、釣れないと分かっていていくのもばかげている。

 そうかそれならば、白神コアエリアへの遡行をめざすしかないか、と気持ちを切り替えた。K君に電話して同行を頼むと「まあいいよ」という返事である。「行って損になる場所じゃないよ、保障するから」。説得したつもりで大急ぎで2人の入山申請を書き、速達で発送した。しかし前々日になってK君は仕事だからやっぱりいけないという。あちこち電話したが、だれもいっしょには行きそうにない。まいいか、またもや単独行だ。

 装備を極限まで軽量化し、食料も米とそばを主食に最小限に絞る。河原の歩きが中心となるので池袋の秀山荘で新品の渓流ブーツを買い、テント代わりにするモンベルのツエルト用フライシート、それからエアマットも新調して準備を整えたのである。不足したのは、2万5千分の一の地形図が全コース分手に入らなかったことくらいだろうか。

 かくして私は出発の日を迎えるのだが、白神山地が世界遺産になって、登山者などは立ち入りができないと思っている人も多いようだから、ここで白神山地の自然保護運動の経緯について若干ふれておこう。

 白神山地を縦断する青秋林道(全長29,6キロ、32億円)が、反対運動に寄って行き詰まりを見せた1989年、林野庁はこの地を新たにもうけた「森林生態系保護地域」と指定した。翌年青秋林道の建設予定線をふくむ中心部が原則として人の手を加えない「保存地区」となったため、林道計画は正式に中止が決まった。

 この森林生態系保護地区はユネスコの提唱するMAB(Man and Biosphere)の考え方が参考にされたという。MABでは厳正に保存されるべき「核心地域」のまわりに「緩衝地域」をおき、第一次参業の利用はこのまわりで行うというものである。白神は93年12月に世界遺産登録が認められるが、森林生態系保護地域の範囲がほとんどそのまま世界遺産地域となり、核心地域、緩衝地域も踏襲されることになる。

 詳しくは述べないが、この森林生態系保護地域指定は、それまで林道建設や原生林伐採を繰り返してきた林野庁が180度転換して、生態系保全を名目に「原則入山禁止」という処置にふみきるお題目となった。自然保護を訴えてきた運動の中には、行政側の恫喝との受けとめもあるほどだ。自然を保護せよというのなら認めよう、その代わり一切の入山を禁止する、というのである。

 世界遺産登録とともに、秋田県側はこの処置を踏襲した。「核心地域」の原則入山禁止である。おかしなことに、特別の許可証をもっていたり、ガイド付きであったり、学術研究との名目がつくものは良しとされる。つまりこういうことだ。行政がこいつは入っていい、こいつは悪いと判断するのである。入山禁止の法的根拠は希薄だから、この分類も恣意的としかいいようがない。

 これに対して青森県側は、入山を許可制にした。「指定27ルート」というあまり登山の実体にそぐわないルートならば、申請すれば許可証を発行していた。平成16年からは、許可証もなくなったのは冒頭紹介したとおりである。

 私が思うに自然保護の混乱に輪をかけたのは、環境NGOなど一部の自然保護団体を自称するものたちが行政のお先棒を担いで「入山禁止」に唱和したことである。これに対して、青秋林道反対運動の中心であった根深誠氏をはじめ地元の登山や沢登り愛好家たちは猛然と反発した。

 人が徒歩で立ち入ることで生態系にいかほどの悪影響があるというのだろう。あまりにも過剰な人員が殺到すれば、規制は必要になるかもしれない。こうした点について、基本的データーを収集したり、全般的な調査ができるのは行政である。情報を公開し、実像を周知して、オーバーユースにいたらない方法を、研究者や利用者の意見を採り入れつつ決めるのが行政の本来の役割ではないのか。

 白神はけして観光地ではない。気軽にこれる場所ではないのだ。観光的施設などつくらずに、既存の林道を封鎖して、徒歩以外に近づく手段をなくしてしまえば、なお効果的なはずである。

 前置きばかり長くて恐縮だが、実は私にはもう一ついいたいことがある。行政側はこの地域での焚き火や動植物の捕獲、端的に言えば山菜やイワナをとることを禁止しているが、私には異論がある。これについてはたぶん議論にもなり、批判を受けることもあるだろう。だが、制限はあり得ても禁止は間違いだというのが私の考えである。焚き火を起こし、山菜やイワナを捕りながら旅をするのは、この地で生きてきたマタギをはじめ、もっとも合理的で野趣あふれる自然の利用法である。私にとっては息子に伝えたい野遊びの第一候補といってもいい。白神は元来、そんな川の旅を愛する人たちの憧憬の地であったのだ。

 だからこそ、というべきだろうか。白神山地は私としてもぜひとも踏破しておかねばならないエリアなのであった。そんなわけで、大急ぎで準備したこの夏の白神山行がはじまったのである。



7月17日

  私の住む埼玉県上福岡市から、高速道路を経て、白神に到着するのにおよそ8時間ほどだったろうか。道が日本海側に近づくと激しい雨が続いていた。

 午前6時に同じ車で交替しながら運転してきてくれた小川夫妻と白神ラインの追良瀬大橋に立つ。しかしここから見える追良瀬川は完全な濁流。泥水が轟々と音を立てている。「こりゃだめだ」あきらめるしかないかなと思いながら、とりあえずこの日白神山に登るという人たちの集合場所までいったん退却する。

 少し雨が小振りになったので、もういちど追良瀬大橋に引き返したのが午前9時半。私には水かさが増しているように見えたが、このまま帰るのもつまらない。暗門の滝方向に行くという小川さんに、行ってムリだと思えたら引き返してくるから、帰りに12時までここで待っていてほしいとお願いして出発することにした。

 堰堤までの林道を歩き、まき道を通って河原に降りると、ごうごうという流れがさらに勢いを増しているようだ。茶色に濁って底が見えない。ここから屈曲点ごとに徒渉をくり返しながら進むのだが、歩き出して1時間半程度の淵で進退が窮まった。渡ろうにもすぐ下の落ち込みに吸い込まれそうで渡れない。辺つりのできる限界まで淵をたどり、泳いで渡るしかないようだ。ザイルの端をリュックに結んで、しばし流れを見る。「これを越えたら帰れないな」。そうおもいつつも思い切り岩を蹴って水流に乗り出す。対岸に泳ぎ渡り、ザイルをたぐってリュックを引き寄せた。思いのほかスイスイといけたので、ここで気持ちもしゃんとした。

 いくつか先の淵で、濁流に立つ私の足元を黒いものがゆっくりと動いた。イワナだ。追良瀬川特有の、白い斑点がくっきりと見えた。つぎの淵では、変なカモが浮きながらこちらを見ている。「これがうわさのシノリガモかな」と思いながら、雨を気にしつつカメラを出して写真を撮る。カモの動きはコミカルだ。距離を詰めるツツっと逃げる。離れるとまたよってくる。じつはこのシノリガモ、本流を遡行中は至る所で見かけた。というより、見られていた。人なつこくずーとついてくる感じがした。

 小さなゴルジュがあって、水量が多くどうにも乗り越せないので、左岸のまき道をたどる。懸垂で水際に降りると、後続の3人パーティーがゴルジュの向こう側に見えた。こんな天気じゃ誰もいないと思っていたが、他人がいたのでなんだかほっとする。

 二の沢が合流する直前に適当な河原があったので、野営の準備をしていると、先を越さ

れたと思っていた3人がやってきた。付近の台地でテントを設営していたのに、私が気づかず追い越してしまっていたようだ。彼らは釣り竿をもってすぐ上の淵に陣取った。このころになるといったん雨も止み濁流も薄らいで、ブルーの色合いが強くなった。その薄らいだ濁りの淵に粘ったまま、3?。以上もの底へ仕掛けを沈め、彼らは次々とイワナを釣り上げる。

 近年の私はテンカラと呼ばれる和式毛針による釣法にこっていて、こちらは歩きながら毛針をふるう。ポイントからポイントへ、水面に落ちる羽虫に飛びつく食い気のある魚だけをかけていくので合理的でスピーディだ。他人の餌釣りを見るのはひさしぶりだったが、こちらものんびりしていいもんだなと感心する。

 それにしてもなんという魚影の濃さよ。きっと多くの人が釣りを試みるだろうテント場の付近で優に尺越えのイワナが次々とかかる。魚影の濃さは、建前上の禁漁のせいではない。やはりイワナは森と水が育てるのだ。

 私もご相伴に預かって、イワナをあぶる焚き火を起こす。

 いつも思うのだが、焚き火は一つの儀式である。流木を集め、適当な大きさに切り分け、小枝から順に火種に添える。いったん燃え上がれば少しの雨なら平気だし、覆いをすれば本降りでもしのげる。つづいて米をとぎ、火にかけて、湯を沸かす。根曲がり竹の串に刺したイワナも程良く仕上がる。ご飯と納豆だけの粗末な食事も、イワナでぐっと豪華になる。ほんとうなら焼き枯らして、イワナ酒といきたいところだが、徹夜で運転してきた今日はもうその元気はないようだ。シュラフカバーに潜り込み、そのまま寝入ってしまう。



7月18日

  夜中に激しく雨が降る。なにか身体に異変を感じて目が覚めるのだが、節々の痛みとともに、猛烈なかゆみとも痛みともつかない感覚がおそってきた。時計を見ると午前2時半である。最初はよく分からないのだが、目覚めてくると異変の正体がはっきりしてきた。顔と手足から猛烈なかゆみを感じるのだ。そんなはずはない。顔は防虫ネットで覆い、シュラフカバーにすっぽりと治まっている。しかし起きて点検してみると、防虫ネットが肌に触れる頬骨の部分がぶっくりと腫れている。手首足首から先の露出部分がやられて腫れ上がっている。

 ヤブ蚊かブユか分からないが、ものすごい攻撃を受けたようだ。きっと防虫ネットのまわりに、つまり私の顔のまわりに、雲霞のごとく群がっていたのだ。そのうちの何匹かが、わずかな隙間からシュラフの中に潜り込んで血を吸ったのだ。なんともおそろしい。それにしても、かゆくて目が覚めるなんて最悪だ。あまりのかゆみにもう寝ることもできない。
 幸い雨も止んだので、焚き火に点火し、お茶を飲んで夜明けをまつ。朝は、夕べの残りご飯でお茶漬けだ。

 タープをたたみパッキングをしても、食われて腫れた手に力が入らない。フェルトの靴下に足をねじ込み、渓流シューズを重ねる。夕べ見たよりは水かさが増した冷たい流れに踏み込むと、腫れた足も少しは気持ちがいい。午前6時少し前によたよたと歩き始める。
 それでも昨日よりは水量が減っているのだろうか、ゴルジュもさしたる困難はない。まき道も快適だ。すぐに落差20?。の滝をかけて五郎三郎の沢が落ちてくる。本流は平坦で平凡だがゆったりしていいところだ。川底の色が赤くなったり、青くなったり、岩盤が美しい。
 周囲を見渡してもブナはまばら、ミズナラ、サワグルミなどが判別できる。水はとうとうと河原いっぱいに流れ、ひっきりなしにイワナが走る。こんな平坦な場所で林道などが近くにない河はそうはないだろう。確かにこれが自然の原初の姿で、かろうじて守られている森なんだろうなと思う。

 イワナに遊んでもらいながらのんびりと歩いていると、ウズラ石沢の出会いについた。沢側の高台に登って昼食。そばを流れに浸し、たれにつけて食べる。誤って少しだがそばを流れにもっていかれ淵に吸い込まれる。しばらくすると、コバルトブルーと白泡の交じり合う淵でなにかがうごめく。イワナだ。でかい。40センチを越えるようなのが二匹、三匹と群雄ししきりに反転する。流れたそばを食ってるのか。近づいても逃げない。夢中で写真を撮るが、流れの底にいる魚はうまく写せそうにない。

 そうこうしているうちに昨日の後続3人パーティがやってきた。彼らはこのままサカサ川に行くという。サカサ川は追良瀬流域でもっとも美しいとネットで見ていたので、うらやましく思う。残念ながら小川さんとの待ち合わせは、明日の4時に白神登山道入り口である。ここで彼らを見送る。つかず離れず見かけたシノリガモともお別れだ。「オッサンきおつけていけよ」という声がする。

 ウズラ石沢を登り始めるとようやく普通の沢に入ったという感じがするが、どこか奥秩父の沢のようで、苔むした様子が美しい。高度を増すにつれて、ブナの群生帯が現れてきた。これが白神かとは思うが、沢を歩いて見える範囲なら、どこにでもある普通の沢のようだ。

 午後4時近くになって、小さな野営スペースを見つける。ホントはもう5分も歩けばもっと快適な場所があったのだが、もう身体はぐたぐた。やっとタープを張り、寝床をつくる。対岸を見上げると、みごとなブナがこちらを見下ろしている。流木を探しに出かけるのだが、どうにも適当なものがない。湿り気が強く、流れの中で半ば腐ってしまったような薪ばかりだ。

 今日も儀式のように焚き火を始めるが、何度やってもうまくいかない。火種にもっていた着火ジェルも使い果たしてしまう。おまけにといだ米をひっくり返して、ぶちまけてしまった。

 がっくりと落ち込んだが、気を取り直して、ヘッドランプをつけ、暗がりの中を小枝から拾い直していく。トイレットペーパーでこよりをつくり、ライターで点火し、小枝から少しずつ太い幹に点火していく。どうしてこうまでこだわって焚き火をするのか、なにか無駄なことをやってるなという気もするが、火が起きるとやはり気分は落ち着く。生きていける感じがする。私はこの原初の森でたったひとり、火をおこすという原始的な手法で命をつないでいる。ライターは使ったけれどね。

 残った米を炊き、湯を沸かし、イワナをあぶる。持ってきた酒もここで全部飲んでしまう。身体の節々がきしみ、虫さされで腫れ上がった顔と手足のことを忘れてしまえば、いまは至福のときだ。幸い今夜はヤブ蚊もおそってこない。ゆっくりと酔い、渓底から雲の切れ間に星を見て眠る。



7月19日

  朝はゆっくりと起きた。パッキングをすませ、出発する。ここから先は枝沢が多く道に迷いやすいらしい。吉川栄一氏のガイドによれば、「完璧な読図、沈着なルートファインディング、野性的方向感覚、神仏のお導きがそろえば」(山と渓谷社)藪こぎなしで白神山頂へ至れるのだそうだ。

 そうかと思って一生懸命読図をして、ある二股を右へルートをとったのだが、どうもこれが違っていて、滝を越えていくうちにいくらなんでもこれは違うと思って引き返すことになる。疲れ切った身体で、引き返す判断をするのはつらい。これに2時間を費やした。
 もう一カ所、今度は左に折れて間違ったが、これはすぐに行き止まりになるので分かる。テープや布の目印も石積みのケルンも、鉈目すら見あたらないが、よく見ると石の上のコケがふまれてすれているので、焦らなければ、そんなに間違うほどではない。これはいまだからいえることで、実際は不安でいっぱいだったのだが、ともかくよたよたと滝を越えていく。徐々に徐々に高度を稼ぎ、見上げると稜線へ突き上げているルンゼがくっきりとみえたので、これで大丈夫とほっとする。このあたりはもうブナはなく、根曲がり竹やイタドリなどが群生する。いつのまにかその熊笹のトンネルにはいると、5分もしないうちに塩ビ管から水が流れている光景に出くわした。うんっ?ああこれが山頂近くの水場かとわかるまで間があった。

 山頂をふむがガスで周囲はなにも見えない。

 避難小屋は昼食をとる人でにぎわっていた。

 下山路にはいると雨が激しく降ってきた。

 沢用のフェルトブーツで泥の道を何度もコケながら下っていくと、ちょうど3時間で登山道入り口についた。小川夫妻はとうにやってきていて、車を止めて待っていてくれた。



通風 悟空の緊箍呪(きんこじゅ)

通風 悟空の緊箍呪(きんこじゅ)
鈴木 啓太郎


 通風とつきあい始めて10年にもなるが、ここ2ヶ月の間ほどひどい目にあったことはない。通風の発作時の痛みといえば尋常ではない。万力で足の親指の根本を締め付けるような激痛が突如としておそってくる。


 はじめての発作を経験したときは、なにがおきたのか理解するのに時間がかかって、4日間は激痛に苦しんだ。5年後に次の発作が起きたときは、救急病院に行き、薬を処方されて事なきを得た。3年後の発作は欧州旅行中だったのでちょっと大変だったが、向こうの医者は手慣れたもので、注射と薬の処方で一日ホテルで休んだだけで痛みは止まった。

 それから2年後の今夏7月、右足の先に違和感を覚えて「アレ、変だな」と思ったら、痛みがじんじんとやってくる。2年前の薬、C薬とV薬が残っていたので、とりあえず、それを飲んだら、少しは腫れたが痛みはそれほどでもなく治まって行く気配。そこで懇意にしている町医者に行き、新しい薬をもらったが、ここからが新たな悲劇の始まりだった。

 この新しい薬では、発作が治まるどころか緩慢に腫れ上がり、痛みもどんどん増してしまうのだ。仕方なく、残っていたC薬を飲むと、一気に効いてくる感じがする。ちなみにC薬は痛風発作時の特効薬とされるが、副作用が強く、常用されることはない。特にひどい下痢がやってくる。すさまじい下痢がやってくると、痛みも治まるなんともいえない薬なのだ。

 ただ今回は、痛みが治まって一安心というわけにはいかなかった。しばらくすると今度は左足に痛みを感じた。これは初めての体験である。医者へ行って、C薬とD薬がほしいというと、なんとウチには無いという。仕方がないので少し大きな病院に行って同じ薬を求めると「そんなふるい薬は今時使わない」といういわれ方だ。では、その医院の処方する薬を飲んでみる。やはり効かない。今度は左足にあの締め付ける痛みが戻ってきた。もう一度町医者に行き、処方箋だけ書いてもらって、やっと薬局で薬を受け取ることができた。薬を飲み、痛みに耐えて、下痢がくると、一安心だ。

 ただしこの薬の処方は15錠までである。早ければ4日間でなくなる。めんどくさいが週に一度は診察を受け、薬を受け取って飲み続けねばならない。そこで夏休みを前に早めに医者に行き、処方箋を書いておいてもらった。休日を挟んでいたので、すぐに薬局に行かなかったのが災いした。処方箋の期日が4日間しか有効ではないなどという知識はこのときまで、私には無かったのだ。薬局に出向いたときはすでに5日目だった。この処方は使えませんといわれて不安がよぎったが、病院は休診中。それでも痛みが治まっていたので「っま、いいか」と思ったのが運の尽き。ストックしてあったC薬を一日1粒ずつ飲んで、それがきれてから、5日目の、またもや土曜日の午後のことだ。「きた」とおもったが、もう遅い。救急病院に行くという手もあるのだが、またまた検査の一からやり直しというのも煩わしい。何とか月曜までもってくれと祈ったが、痛みのピークは月曜の朝にやってきた。激痛の足を引きずって、医者へ行き、処方箋を書いてもらい、薬局へ行き、薬を飲んで、効いてくるまでの数時間、激痛にのたうち回ることになった。最悪なことにこの日は9月定例議会の初日。市長の演説などまったく耳に入ら無いなどというのはどうでもいいが、サンダル履きで(痛みで靴が履けないのだ)議席で苦痛にゆがむ私の痛風話は役所中に知れ渡り、病気とはいえ、なんとなく惨めな気分になった。

 この痛みがやってくると、思い出すのは孫悟空のアタマの金の輪のはなし。三蔵法師が緊箍呪というまじまいを唱えると、きりきりと締め付けるというやつだ。あの話、きっと痛風に違いないと私は信じている。悟空を締め上げるのも、元々は悟空のなかに要因があってのこと、という話はみなさん御存知だろうか。その点は痛風も同じ。体内の尿酸が蓄積して発作を引き起こすのだが、だれもがもってる尿酸が暴れ出すのは、どこかに、私の行いを戒めようと呪文を唱えているやつがいるからなのだ。悔しいがこの痛みにはどうにも勝てない。「お師匠様、なんでも言うことをききます。どうかご勘弁を」と私も思わず叫んでしまう。

シックハウスをゲット マイホーム「5月危機」

シックハウスをゲット マイホーム「5月危機」

鈴木 啓太郎


 「シックハウス症候群だっていうの!」電話の向こうで妻が絶句した。シックハウスという言葉を知っていたのは妻の方である。不覚にも私は事態をなかなか察知することができなかった。ただ私たちが住むことになったマンションの一室の、リフォームに使った新建材に原因があるのではないかと、そのとき私は旅行先から妻に電話で告げたのだった。ようやく妻と私の考えが一致したとき、何か憑かれていたものが落ちたような急な安堵感がこみ上げてきたのを覚えている。

 3月のはじめだったと思うが、新聞折り込みの中古マンションの広告を見て、半分冷やかしで電話をかけすぐに物件を見に行くことになった。行ってみるとなかなかいいところだったので、値切れるだけ値切って、こんな私でも安いローンが組めるなら買ってもいいかなあと思っていたら、思いどおりにことが運び、いままでのアパートの家賃よりも月々の出費は安くなることも分かったので、思い切って買うことにしてしまった。家を買うなんて人生にそう何度もないはずのことだが、見に行ってから決めるまでわずか2週間足らずの即断だった。そこで、どうせなら自分好みにリフォームをしようと思い立って、頭金を払った以外のなけなしの貯金をそこにつぎ込むことにした。

 本当なら、自然保護運動で知り合っていた近所の大工さんにリフォームを頼みたかった。しかし、仕事の都合で5月の半ばまで工事は無理だという。連休中には引っ越しを済ませたかったのと、もう一ヶ月分、アパートの家賃を払うのはもったいないと思ったのだ。

 そこで不動産屋に紹介された業者にリフォームをまかせることにした。私の関心は建材にどういうものが使われるのかというより、業者がちゃんとした仕事をするか、騒音で近所に迷惑をかけないかとかのほうにあった。いまから考えると、うかつだったとしかいいようがないのだが、早く引っ越してしまいたい、そういう思いの方が強くて細かいことにこだわりたくなかったのである。

 工事が終わったのが、4月27日。28日から荷物を運んで、29日にアパートを引き払い、連休中に片づけを終えた。彼女の両親も手伝いにきてくれ、近所の人も手伝ってくれてすべては順調に進んだかに見えた。

 コトは2才になる娘から始まった。荷物の運び終わった部屋に娘を連れてきたとたん機嫌が悪くなったのだ。

 近所の人がいくらお愛想をいっても「フン」とそっぽを向いて荷物の間に隠れてしまう。失礼な奴だなーと思っていると、そのうち火がついたように泣き出した。「引っ越しで疲れたんじゃない」「急に大勢人がきたから」。みなさん気遣う言葉を残して早々に引き上げていった。そしてわが家の悲劇はここから始まったのである。

 娘は夜になって熱をだした。翌日病院へ。「軽い喘息」というのがその日の診断だった。「季節の変わり目ですから、こじらせないように外の風に当てないでください。連休の間も家にいて閉め切っているように」。

 後にこれが決定的な誤りであることが判明するのだが、この指示は固く守られた。そして、薬を与えても安静をつづけても、娘の症状は悪化するいっぽうだった。そのうち妻も異常を訴えだした。私もなんだかのどが痛い。連休中やるはずだった片づけもこうなるとすすめるわけにはいかない。彼女の両親も予定を変更して引き上げるという。順調に進んでいた引っ越しも急速に歯車の回転が合わなくなっていった。

 両親が帰ると今度は妻が怒りだした。引っ越し時の私の彼女の両親に対する態度が悪かったという。このときの心境をどのように表現したらいいだろう。

 のどがひりひりと痛み、目には霞がかかったような印象だ。照明の暗い片づかない部屋のなかで娘と妻が臥せっている。そして口々に私のことをののしるのだ。どこかおかしい。こんなはずじゃなかった。貧しくても幸せなマイホームのはずだったのだ。

 そう、こんなときは逃げるに限るのである。予定していたことではあったのだが、私はそそくさと旅行に出かけた。

 家を出て2日ほどしたとき、のどの痛みが消え気分が急速にやわらいだ。このときやっと事態に気がついたのだ。リフォームした家に原因があるのではと。そうとしか考えられない。すぐに妻に電話をかけ、冒頭の話につながる。

 「そこにいたらダメだ。すぐに避難しよう。窓も開け放って換気しなくちゃダメだ。子どもは両親にしばらく預けよう」。

 実家に避難した妻と娘も、家を離れると急速に見事に体調を回復した。何よりもこうした体験というか体感が、私たちがシックハウス症候群であったことを教えていた。

 この後、県の消費者センターに調査を依頼し、原因物質の追及をはじめたが、フロア材をリフォームした部屋から基準より多少多めのホルムアルデヒドが検出された。フロア材はJIS規格でいうF2で、やはり相当のホルムアルデヒドを含んでいるのは間違いなかった。しかしそれ以外には、建材の成分や材料から「ク口」となるようなものは見つけられなかった。何があれほど人を攻撃的にしたり、イラつかせたりするのだろう。

 2週間ほどの避難生活の後娘は家に戻った。窓を開け放ち、24時間換気をしながら暮らすこと、活性炭を部屋におき、マイナスイオンの発生源を配置したこと、リフォームしなかった部屋を中心に寝起きすることで、今のところ私たちは無事に暮らしている。しかし、いまなお消え去ったわけではないホルムアルデヒドなどの化学物質が、今後私たち家族の健康にどんな作用をもたらすか、それはまだ分からない。

空路知床のオショロコマを求めて

空路知床のオショロコマを求めて

鈴木 啓太郎


 私たちはアプローチに空路を選んだ。

 少ない休暇の時間に旅行を満喫するには、アプローチの時間を短縮するしかないというのが一番の理由だ。そのかわり、荷物は制約されるので、キャンプで過ごすというわけにはいかない。レンタカーを使い民宿やホテルを転々とするということになり、多少割高になったのが(四泊五日で十二万円を要した)デメリットである。

 それにしても羽田からわずか百分で釧路に到着する魅力は大きい。飛行機が飛び立って、ひと眠りしもしないうちに、あっという間に着陸の体制に入ってしまう。

 八〇〇〇メートル上空の小さな窓から見える青空が、分厚い雲に変わり、眼下に広大な原野が広がるのが良くわかった。そのどこまでもつづくような原野のなかに小さいけれどきれいな釧路空港がある。羽田の喧噪から比べれば、まるでタイムスリップのような着陸だった。

 今回の旅の目的はもちろんワークショップに参加するためだが、それ以外は自由時間だ。そこで、まず釧路川をカヌーで下ること、羅臼岳に登ること、そして何よりも知床半島のオショロコマを釣り上げることを私たちはテーマにした。

 カヌーによる川下りは、自前のものを使ったのではなく、ガイドつきのまるで遊覧船の旅のようだったので、「一応釧路川を下ってみた」という以上の感動は得られなかった。釧路川など北海道の河川はゆったりと蛇行しながら流れるヨーロッパ型のチョークストリームが多く、危険個所が少なく、初心者がカヌーで下るにはうってつけともいえる。私たちが出発点にしていた塘路湖のキャンプ場にはたくさんのカヌーイストたちがいて、家族で川下りを楽しんでる人も多かった。湿原のなかを好きなように漕ぎ出せたら格別だろう。まあこれは、次の楽しみにとっておこう。

 さて、ここではとくにオショロコマについて記しておこう。オショロコマは道東を中心に北海道にしか生息しないイワナの一種である。もう一種のアメマス系イワナは降海型で大型になるが、こちらは余り大きくならない。ヨーロッパには同種のものがいて英名ドリー・バーデン、その色鮮やかな美しさが多くのアングラーをひきよせている。

 今回私たちは、ヒグマの生息地である知床の沢筋にお邪魔して、このオショロコマを釣り上げようと企てたのだ。パーティの面々と身支度を整え、おそるおそる沢を遡行しはじめた。水は死ぬほど冷たく、気温も上がらない。時折雨もぱらつく。沢のなかは暗く、谷は深い。「ぴー・ぴー!」と思いっきり笛を鳴らしながらすすむ。ヒグマが恐いからである。

 まず、Sさんの竿が大きくしなった。最初の一尾。赤い斑点が確かに美しい。顔つきが優しく幼い感じがする。ここからはまったくの「入れ食い」状態になった。次々とヒット。大きめでおいしそうな奴だけをキープし、後は流れに返す。そういえば、地元の人にポイントを聞いたとき「そんなものはどこにでもいるよ」という態度だった。入漁証もいらないし、漁業権も設定されていない。要するに、地元では大して価値はないということらしい。あんまり簡単に釣れるのでこちらも少し興ざめしてくる。

 やがて二段四〇メートル程の滝が現れた。手元の気圧式高度計では標高六〇〇メートルほどの地点である。その大きな滝壷を覗くと、なんとオショロコマが群をなして泳いでいる。流れ落ちる滝に向かって放射線状に整列し、まるで隊列を整えているように泳いでいるのだ。時折エサを見つけるのかはげしく水面をたたくものもいる。こんな情景は、話に聞いたことはあるが、見るのは私も初めてである。

 フライをとばすと、勢い良く飛びついた。四番ロッドがしなり、キョトンとして何が起きたかわかってないようなイワナがついてきた。同じ毛針では二三回で見破られるのか飛びつかなくなるが、フライを変えれば、何度やっても同じ。際限なく釣れてくるようだ。

 「もうやめよう」。気がついたら昼近くだったが、もう充分に堪能したという気持ちになった。ここはイワナの楽園で、ヒグマの聖域なのだ。私たちはそこにきて、豊かな自然のなかの悠久のときの流れと美しさとを楽しませてもらった。

 また、今回の旅では、たくさんの野鳥に出会えた。釧路ではみられなかった丹頂鶴は、野付半島に二組のつがいがいた。すさまじいアオサギの群。ウミネコ。アジサシ。観光地を避けて人のいない水辺にいけばどこにでもたくさんの鳥に出会えた。沢筋でもキジを久々に間近に見た。次の楽しみは次の機会にとっておくことにしよう。晴れ上がった女満別空港上空で、私たちは道東の景色に別れを告げた。