2006年01月01日

第3次総合振興計画・基本構想批判

第3次総合振興計画・基本構想批判


包括的質問
将来的都市像のイメージコピー

「わたしのまち循環型社会かみふくおか」を、

当初案にあった

「みどりはぐくむ」を挿入、

「みどりはぐくむ、わたしのまち、上福岡」

に変更すべきである。
 
「循環型社会」ということばはイメージコピーにふさわしくない
 「循環型社会」は「循環型社会形成基本法」などにより、すでに法律、行政用語として明確に定義されているが、基本構想における意味の定義はそれとは違っている。法律的に定義されている方を一般的社会的通念と見なすべきで、独特の定義を与えて、イメージコピーとするような用語の使用は、誤解を生むだけでなく、使い方としても誤っている。

 法律的、行政的に確立している「循環型社会」とは、これまで廃棄物とされていたものを資源として位置づけ、その循環的な利用をおこない、もって天然資源の消費を抑制し、環境への負荷を軽減する社会のことをいう

 また言葉の意味での「循環」とは、血液の循環、景気の循環、循環鉄道など主として「物質的循環」を指すのであって、それ以外の意味に使用される場合には「堂々巡り」の意味になり、悪循環、循環論法、循環小数など、イメージ的には負=マイナスの要素を持つ用語となる。
 
 「心の循環」「知恵の循環」など意味不明である。「都市の循環」に至ってはなんのことかさっぱりわからない。仮に「必ずしも大きな成長を前提としなくても」という基本構想の用語法に従うと「発展することを望まない都市」という意味になりかねない。
 
 右肩上がりの成長を前提にしていた無制限、無制約の大量生産、大量消費社会への反省として「循環型社会」の用語が使われる場合、そこには価値観の転換を含んでいると解されるが、それはいわゆる「安定成長」「停滞社会」を甘受するライフスタイルに転換していくべきといった主張であって、「心」や「知恵」や「技能」の停滞を意味しない。むしろ物質的、経済的成長の限界を、社会もしくは個人の精神的文化的発展と成長によって越えるべしという主旨にほかならない。まして行政のおこなう街づくりの指針において「発展・成長」の方向を否定してしまうのは許されないのではないか。


 基本構想の策定に当たって、市の財政状況を明らかにし、財源の裏付けを基本構想に明らかにしていくべきである。


 財政力指数(0,76→0,737)の後退、経常収支比率の悪化(81,6→82,2)にみられるように、財務で「優等生」であった上福岡市の財力は徐々に悪化し、今年度以降「危険域」に達するという見方もある。こうした現状を省みず、基本構想・総合計画を必要性一般から構築するならば、財政放漫化を招くのは必至となる。逆に、計画段階で現実的には「財布と相談しながら決めていく」というのであれば「非現実的」な基本構想・総合計画の方に問題がある。


 施策の実現に当たって、独自財源の確保を模索する自治体が増えている。課税自主権の行使、PFIの採用、その他の方策は考えていかないのか。


 住民の願いをすべて織り込んだような総バナ的な構想にするのではなく、基本構想においても優先順位を明確化し、その考え方を明らかにすべきだ。議会での審議抜きに計画段階で、優劣を付ける旧来の方法は同意できない。


 先の総括質疑で明らかにされた市長の政策的優先順位と基本構想における考え方の提示とは明らかに異なっている。例えば第4章「社会情勢の変化に向けて」(1)~(8)は政策的優先順位なのか。なにをスクラップし、なにをビルドするのか。考え方をいうべきではないか。
 
 ・、・、・、・、・、・、・、・にすべきでは
 主要事業一覧で見る限り、都市整備に大きく配分されている。開発優先型というほかない。このような計画の配分に対する十分な説明がない。


 総合振興計画の審議会答申案は、どこまでいかされているか。とくに「計画段階からの市民参加」をめぐって、5年後に変えるつもりがあるか。計画段階からの市民参加、本市の特徴を捉えた計画づくりに切り替えていくべきである。


各論における質問
基本構想を指針として、基本計画が作られ、
基本計画に乗っ取って
予算の編成、執行がされていくという原則によれば、
基本構想にふれられていないものは、
予算の編成も執行もできないと解される。

この立場から以下の点を質問する。
 
第1節
 「児童福祉の充実」について。少子化傾向を生みだしている現状に対する危機的意識が欠如している。増え続ける保育需要に対する保育サービスの現状は満足のいく段階にないことを明記すべき。


 福祉・保健・医療計画における児童福祉、高齢者福祉、障害者、介護保険、地域福祉・健康増進などの関連と位置づけが明確でない。たとえば高齢者福祉と介護保険とは一体のものではないのか。


 ノーマライゼーション、QOLの実現などの文言がどこにもない。福祉政策の根本になるべき自立支援、尊厳の保持などの原則を盛り込むべきで、基本的な考えを示さず、高齢者、障害者、地域福祉などを別々の事柄として論ずることがおかしい。


 「在宅福祉の充実」と「施設の整備」との関連も明らかではない。


 「ボランティア団体」とは何か。旧来の措置制度の補完物としてのそれを「地域福祉の担い手」として本気で考えているのか。青少年や社会的サンクションとしての教育的処置的「ボランティア」と、地域援護体制の担い手の育成とは分けて考えるべきではないのか。
 

第2節
 余裕教室の活用は考えないのか

 教育の充実のなかに「教師の充実」は含まないのか

 社会教育の位置づけが「社会教育法」にいうそれと違っていないか。

 「青少年にとって好ましい」とはどういうことか。子供の権利条約との関連

 「文化的視点を取り入れた行政施策」とは何か

 「すぐれた芸術・文化」とは、具体的事例は

 「市民の自主的な芸術文化」とは具体的事例

 「歴史的文化遺産の保護と保全」は良いが、「史料の整理」はしないのか。
 

第3節
 減量化と資源化の優先順位は

 再利用、再生品の利用促進は課題にならないのか

 環境教育は?不法投棄は空き地、道路だけか

 水道の整備に、地下水の位置づけがない。地下水の涵養。保全を含まないのか。

 合併処理浄化槽など事業化する必要はないのか。
 

第4節
 省略(ありすぎて、困っている)
 


第5節
 市民農園的活用は考えないのか

 地場産業の育成は課題にならないのか

 障害者、高齢者の職業訓練は政策化しないのか
 

第6節
 市民参加、参画に関する位置づけがない。

 NPO育成の方針がない。

 「子供の権利条約」は?

 男女共同参画、企業市民との協働ではなく、主導すべきなのでは?

 「新たな財政需要に対処」は具体的には?もとより計画的財政運営は責務。

原発をこれ以上増やさないために「1%節電」に関する陳情

合併協議会の設置に反対する
 
市長は合併推進の理由を明らかにせず、
公開の場で論じ合うことを拒絶している
 上福岡市、富士見市、大井町、三芳町2市2町に提案された合併協議会の設置請求は、法定署名数など手続き上の合法性要件を満たしているとはいえ、何故に合併協議会設置が必要なのかという根本的な理由を明らかにしていない。
 また議会に付議するにあたり「意見を付けなければならない」武藤市長もわずかに「賛成します」という5文字をそこに添付しただけで、やはり合併協議会を求める理由について言及しようとしない。

 わが市の合併に連なる重大問題を議決するにあたって、その理由、主張の正当性の論証は当然の義務であるが、提案者も、また提案を受け入れた市長も内容にはふれず、議会という公開の場において論じ合うことを拒絶するのはいったいどうしたことか。
 このような態度は、今後も市民に開かれた議論など到底期待することができないことを示唆しており、「合併の是非を論ずる」という合併協議会の建て前をはなはだしく疑わしきものにしている。
 
 
2市2町の合併は、ふじみ野駅周辺開発の
受け皿自治体づくりとして計画された経緯を持つ
 だが明確に語られなくとも、2市2町合併が計画されてきた歴史的な経緯ははっきりしている。
 
 いうまでもなくそれは、ふじみ野駅周辺の開発事業の受け皿となる自治体の形成というコンセプトにほかならない。
こうした点で、わが2市2町の合併策は、埼玉新都心の受け皿づくりの浦和、大宮、与野合併計画や、湾岸開発プロジェクトを中心に据えて那珂港市、勝田市の合併したひたちなか市となんら変わることがない。
 
 ただし、計画当初とは様々な意味での条件の変化が生まれた。首長の変更や政治地図の変化以外にもっとも大きく計画の変更を迫ったのはバブルの崩壊であろう。これにより、巨大開発事業が一時的に沈静化せざるを得なくなったのはご承知のとおりである。だがふじみの駅が開通し、東上線急行が止まり、大きなマンション群がそれなりに活況を示してきたこんにち、合併開発策は、あらたな装いをもってわれわれの前に姿を現すことになった。
 
 それがすなわち「平成の大合併」といわれる「地方分権受け皿論」「行財政改革=市町村合併論」の装いを身につけたあらたな合併論の台頭にほかならない。これらは東入間青年会議所が提案する「みよし野田園都市構想」として、いまわれわれに、合併協議会の設置を迫ろうとしているのである。
 
新しい街が生まれることを歓迎すべきか
 ところで、このような合併すなわち大開発といった議論の展開は、いささかステレオタイプに属するものであり、常軌を逸していると思われるかも知れない。各自治体の自主的な合併の促進は地方分権推進委員会の奨励するところであり、上福岡が新しい街に生まれ変わるためにも合併は大切なプロセスではないか、というように。
 
 だがここに大きな陥穽がある。
 
 わが2市2町の合併は、地方分権の推進とは似て非なる別物であり、合併は上福岡の基礎自治体としての発展に僅かにも寄与しない。
 
特例債など合併で得られる財政は、開発事業に振り向けられ、
上福岡など周辺部には予算は回らない
 もし、万が一この合併が実現するならば、国や県から充当される特例債は、ことごとくふじみ野駅周辺の開発事業に投じられ、その巨大で空虚な中心街に比して、打ち捨てられた周辺部がそれを取り囲むという街が出現するにちがいない。
そればかりか、その巨大債務によって、バブル以後も開発中心政策をつづけた自治体が、大阪府や東京都と歩んだのと同じように、泥沼のような財政危機に落ち込むのは避けられないだろうと推察する。
 
 この結果、わがまちづくりのマスタープランや3次総はもちろん、北野大原地区の再開発などといった地域からたちあげてきた議論は水泡に帰するのであり、福祉や環境といった今日的な施策は大幅に後退することが懸念される。
 
 さて、これらの議論は、単なるキメツケであり、極論にすぎないのだろうか。
 
合併協議会は「自主的に合併を望む」
住民の意思を確認する手続きを必要としない
 本請求にある合併協議会は「合併の是非をも含めて議論する機関であるから、その中身はこれから検討されるのだ」と思われるむきがあるかも知れない。
そこで本論においては、合併特例法に基づく、協議会設置請求の合法性に対し疑義を振り向けていくことにする。
すでに法制上成立している特例法の合法性を問題にするのは、あくまで法制上の不備を指摘した上で、その問題点は何かということを共有しておきたいがためである。
 
 まず第1に指摘したいことは、95年の法改正で導入された住民発議制度は、通常地方自治法の範囲では条例改正をもとめる直接請求に適用されるにすぎない50分の1の有権者署名で発議を可能としており、自治体の存立にかかわる問題への発議としては甚だしく条件が緩い。
 
 憲法95条では、一つの団体のみに適用される特別法は「住民の投票によって過半数の同意を得る」ことを規定し、あるいは改正地方自治法76条「議会の解散請求」などリコール条項では、有権者総数3分の1以上の署名と投票による過半数以上の同意によって解散解職が確定する。
 
自治体合併は「自主的で自立的な」合併の促進を前提にしており、かつ相互の議会議決を前提にすることで、このような処置が取られているのであるが、このことはごく一部の住民の意思によって、合併が合意されかねない法制上の問題を表しているのである。
言い換えれば、市民生活を大きく変える合併問題を協議するにあたって、われわれは住民の意思を確認する手法を、通常選挙以外は持ち得ないということになる。
 
したがって、これらの欠陥を補い合併の是非を決する際には、しかるべく住民投票など住民総意の確認をおこなうべきであり、その後に禍根を残さないためにもこれらは必要不可欠な手続きとみなさねばならない。
 
合併自治体には協議会で合意された
まちづくりビジョンを遵守する義務がない
ためにバラ色のまちづくりを約束し、後で反古にすることが可能である
 第2の問題は、合併協議会後に生まれる「新」合併自治体には、協議会で合意される建設計画の遵守義務がないことである。特例法によれば、合併市町村は、議会の議決を得れば、建設計画をいかようにも変更することができるとされる。
 
ところで、合併協議における「建設計画」は、新しい自治体のビジョンとなるべきものであって、合併を合意するに不可欠でありながら、それを遵守しなくても良いということになり、合併協議会の信頼性を極めて疑わしくしている。
 
 繰り返すが、特例法では合併に際し少数の署名提出で発議され、住民の総意を確認する方法は確立されていない。さらに、かりに各議会が合意しても、新しい自治体議会は合意した建設計画を容易に変更しうるのである。
 
合併推進論は積極的な推進論を必要としない
 このような法制上の問題点が、協議会の性格を危ういものにする。
すなわち、強力で積極的な議会内少数者の反対論を別にすれば、住民の側には積極的な盛り上がりは必要とせず、消極的賛同ないし無関心が合併協議を容易にしかねない。
 
最近東入間青年会議所が発行したビラによれば、武藤市長をのぞく首長の意向は、
「時代の趨勢」(富士見市荻原市長)
「前向きに捉えたい」(大井町島田町長)
「前向きに考えていきたい」(三芳町林町長)
という驚くべき消極的態度である。
 
そこでわれわれが懸念するのは、拙速に合併協議が進行し、充分な詰めがなされず、安易な妥結に踏み込んでいくことであり、特例債による財政措置にのみ目を奪われ、これまでの各自治体の政策立案を台無しにしかねないという問題である。
 
地方分権・分権自治体づくりと2市2町の合併を混同して論じてはならない
 確かに、地方分権推進委員会の第2次勧告などにおいて自主的合併や広域行政への取り組みが奨励され、合併特例法改正に際し住民発議制度や過疎地域活性特例措置の規定拡大が盛り込まれた。
 
 しかしここで問題とされるのは、全国自治体の6割を占める人口で八千人を下回る自治体で、かつ過疎化による人口減が加速度的に進行している地域である。
 
 このような地域においては人口減少が財政規模をいちじるしく低下させ、職員数も減少するなど行政執行能力の低下も避けがたい。もちろんこのような小規模な自治体でも、自主的で自立的なまちづくりを推進し、人口減少をくい止め、産業的発展を実現しているところは全国にたくさん存在している。
このため、合併計画の存在しない空白地が18の道府県に及んでおり、必ずしも合併策は全国的に必要とされている施策ではない。
 
 さらにそうした過疎自治体への救済策としてとられている合併推進策が、上福岡市はじめ2市2町において該当しないのはいうまでもない。わが市は、少子高齢化対策を独自に展開しえないほど脆弱な、自治的能力を欠如した自治体ではない。
 
適正な自治体の規模という議論は間違っている
 これに対して、日本青年会議所の「全国339自治体への改革」といった自治体再編計画は趣を異にする。これらは、通信交通網の発達、モータリゼーションの普及に踏まえ、日常の生活圏、経済圏が拡大したという認識に立って「適正の人口規模・圏域の半径」なるものを算定し、それに見合わない自治体を合併すべしとする乱暴な主張である。
 
 これらの出典根拠は以外に古く、1970年の自治省「広域行政圏構想」、同年の建設省「地方生活圏構想」にさかのぼる。この両構想とも、それぞれ10万から40万までの人口規模、半径20~30キロの圏域を「適正」なものと想定する。しかしそれがすなわち、自治体の規模の「適正」を示すのでないのは一見して明らかである。
 
人口規模の適正な範囲などという構想は
市民の生活感覚に結びつくものではない
 地方分権の時代であるからこそ、自治体にはほんらいの「自己決定・自己責任」が認められるはずで、「それぞれの地域の実情に応じて市町村のあり方を考えることが重要であり」「すべての地域を通じた市町村の適正規模を一律に論ずることは困難であり、市町村の数をあらかじめ定めることは適当ではない」(第25次地方制度調査会答申、98年)と考えるべきで、「適正な人口規模・圏域」などという「上からの」市町村合併は、自主的で自立的な「個性豊かなまちづくり」をめざす地方分権とはまったく別物であり、両者を混同して論じてはならないのである。
 
特例債は借金がしやすくなるというだけで、いずれ付けは支払わねばならない
市民1人当たりの予算は確実に減額する
 ではさらに、合併特例債による財政的特典についても論じてみよう。
 
 合併をおこなえば、普通交付税額の算定特例期間の延長をはじめ、合併特例債など、短期中期的には合併による不足を補ってあまりある財政措置が盛り込まれている。財源に不足をかかえる各自治体にとって、これは魅力的な数値であろう。
 
 だがいかに特典が与えられるとはいえ、これらはほぼ十年間の期限付きの処置で、いくら地方交付税の充当率が高くなるといっても、それは借金がしやすくなったというだけのこと。問題は特例債の使い道となる。これについてはすでにふれたように、新市庁舎やハコもの的施設など、ふじみ野周辺に費やされる可能性がもっとも高く、市民生活が全般的に向上するとはいえない。
 
 しかも合併によって一時的に膨らんだ財政も、優遇期間が過ぎれば、交付税の減額、補助金のカットなどによって減額されていくのは必至である。また人口20万以上の特例市となるために、あらたに水質汚濁防止法、都市計画法、土地区画整理法など15の法律に基づく19項目の事務が増え経費が増大化するのはいうまでもない。こうした点からも将来的に予算規模が縮小するのは避けられないと思われる。したがって、市民1人当たりに充当する予算額は確実に減額されることになる。
 
ただ一つの財政メリットは、議員が減ることである
 唯一市民にとって財政メリットが存するといえば、4人の市長、市の幹部、議会議員、市職員の数が減るということである。しかし事務の増大とともに職員は必要になり、議員歳費の増額などでこれが経費としていかほどの削減になるかは大いに疑問としなければならない。
それでも議員が減る方がよいのだといわれれば、われわれは頭を垂れる以外ない。
 
 しかし、この点は議員諸氏に訴えたいが、議員が減ることを唯一のメリットとする合併に賛同するなどという選択はおのれの存在を低め、辱めるものではないだろうか。市議会議員として市政の発展にかかわってきたと自負する者の矜持にかけて、このような合併策は認めてはならない。
 
「みよし野田園都市」構想は何が間違っているか
 つぎに住民発議の中心事務局であった「東入間青年会議所」が提案する「みよし野田園都市」構想についてみていく。
 
 同会議所が発行するパンフレットによれば、「みよし野田園都市」は「農と食が同居するマチ」であり両者を結ぶ「商というコミニケーション」が設定されるなど共感できる部分もあり、また、三富農業の保全や、新河岸川自然公園構想など肯首しうる多くの提案が含まれている。そこで新しいまちづくりをはじめよう、消防、警察、医師会など、これほどの広域行政の既成事実があるのだから、なぜ行政だけが分離するのか、という問いかけには一見説得力があるように見受けられる。
 
 だが、先にも述べたように、自治体行政の領域には広域事業になじまない数多くの業務が存在する。これらの多くは都市問題としてに派生する社会的弱者の救済という問題である。
弱者は特別な存在ではない。都市生活ではだれもが社会的弱者になりうるからこそ、安全保障を社会的に整備しなければならないのである。
 
 それは住宅政策、生活道路などの問題でいえば、都市計画や土地利用規制への住民の意見反映、行政サービスに対する住民の苦情処理、地域的ニーズに応じた予算の編成といった事業であり、保健福祉でいえば、介護や医療の住民サービス、ヘルパー派遣や相談業務、小型デイサービスやグループホームのたち上げといった今日的課題である。これらは、きめの細かい現場でのやりとりや実態調査の末具体化されていくのであって、広域的に事業化すればよいとはならない。
 
きめの細かい、地域からたちあげる事業が必要とされている
 「地域的ニーズ」を政策化し「だれもが安心して心地よく住める」マチにしていくことが福祉の課題に他ならない。福祉の基礎構造改革論議の中で用いられている理念は「個人の自立した生活を総合的に支援するための地域福祉の充実」であり、こうした考え方が介護保険などでめざされているのはいうまでもない。そうであるからこそ、介護保険法は各市町村に独自の策定委員会を設けさせ、その地域的課題と住民ニーズに即した政策立案を義務づけているのである。
 
 また同パンフレットが「お金があるならば、段差のないマチづくりに着手すべき」など、同会議所が批判するばらまき福祉や、ハコもの福祉とまったく同レベルで福祉的施策を論じているように、いささかも「福祉の本質を捉えていない」ことは明らかであって、同会議所はこうした点をこそ批判的に省みるべきである。
 
 さらに同パンフが、合併は「大きなビジネスチャンス」などと表しているように、地域の商業的発展という、市民生活総体からみれば、それだけでは一面的な利益の強調に終始しており、このような観点から開示される「みよし野田園都市構想」は社会的弱者に注がれるべき視点を切り捨てた「強者」の観点から、広域行政・合併推進を論じているのであって、これらが到底市民的合意をなしうるものでないのは明らかだと思われる。
 
以上述べた視点から、2市2町の合併には賛同できず、
よって協議会設置にも賛成することはできない
 自治体合併の経験を持つ富士見市に対し、上福岡、大井、三芳はそれぞれ独自の自治体として発展を遂げた歴史を持つ。これらは埼玉県政の中でも誇るべき歴史であり、合併などという無駄なエネルギーを費やす必要はない。相互に協力し合い、切磋琢磨していくことで良いではないだろうか。拙速な合併策は道を誤るだけである。
 
 (12月17日上福岡市議会本会議で反対討論時にほぼ全文を朗読。その後、反対8、賛成15-保守系会派・公明-で合併協議会設置に議会が同意を採決した。)