2006年01月01日

進む市町村合併 広域化は財政危機を救うか

進む市町村合併 広域化は財政危機を救うか


さいたま新都心(大宮、浦和、与野)や静岡清水合併など、各地で市町村合併の動きがさかんに起きている。地方分権化や都市再開発の手段として、各自治体が広域化・人口集中に力を入れているためだ。市町村の拡大で住民の生活や町並みはどう変わるのか。合併をかかえる各地からの意見を聞いた。


町の未来が密室で決められようとしている
――埼玉県上福岡市の場合――
上福岡市議会議員  鈴木 啓太郎

 四月一〇日、大宮市、浦和市、与野市で合併協議会が決定され、さいたま市発足の動きが本格化した。私の住む上福岡市でも、富士見市、大井町、三芳町との合併協議会が発足している。何のための市町村合併なのか。上福岡での論議を取り上げたい。



分権化の受皿というけれど

  私が昨年四月に議員になって、降ってわいたように現れてきた難物がこの問題だ。昨年七月、地方分権一括法で「合併特例法」が改正され、有権者の五〇分の一の住民発議で合併協議会の設置請求ができることが決まり、八月には上福岡周辺でも青年会議所による署名運動が始まった。一〇月には法定署名数が各自治体に提出され、一二月に各議会が合併協議会設置を議決というように、アレヨという間に進んできてしまった。

 浦和などの場合は「さいたま新都心」建設という大開発の受け皿自治体づくりとして計画されてきた。わが二市二町の場合も経緯は同様、東上線に新たにできあがった「ふじみ野」駅周辺開発の受け皿的な位置で計画されてきたのである。バブル崩壊以来、話にそれほどの勢いはつかず、計画立ち消えとすら市民には思えていたのだった。

 ところが少し事情が変わった。地方分権推進委員会は第二次勧告で「市町村合併」の促進を打ち出し、地方分権計画の重要課題として持ち上げた。その追い風を受けて、くすぶっていたはずの「二市二町合併」論議が一気に吹き出してきたのである。

 合併するとなにがいいというのか。「スケールメリットで財政規模が拡大する」「行政サービスが向上する」これが自治省の言い分なのだが、実際のところよくわからない。お隣の大井町の人たちは住所を入間郡から書きはじめるのがいやなので、市に昇格するなら何でもいいと言っている。小さな町に住んでいると大きいまちはよく見えるものだ。ターミナルステーションがあって、ビル街があって、中心部にはスポーツ施設がたくさんある。そんな都会的な街へのあこがれがあるのだろう。

 だから、ここから得られるメリットというのは、こういう話ではないかと私は思っている。自分の住んでる近くに温水プールが欲しいと思う。町が単独で作れば財政負担は大変だが、市町村が集まって作れば財政規模は大きくなり、つまりスケールメリットで「効率的」にできて、サービスが向上するというわけだ。

 しかし運良く近所の人は良かったけど、遠くの人にとってはどうだろう。財政の豊かな隣町のプールに行くのと便利さはたいして変わらなかったりもする。ブランド志向で住む街のグレードを問題にすれば、プールがある自治体の方がいいという人もいるだろう。しかし算数的に考えれば便利な人は少数で、大部分の人が遠くなる。広域自治体の非効率の方こそを、問題にすべきだと私は思う。

 街の機能はスポーツ施設だけではない。山村中心の自治体もあれば、農村も市街地もある。街には年寄りも子供も障害者も暮らしているのである。大切なのは基礎的な自治体にだれもが容易にアクセスできるということではないか。そこにコミュニティが成立しているということも生活には必要だ。自分の住んでいる地域の問題を自分たちで解決できるのは「地方分権」の大事な課題であるはずだ。

 この問題を国家的統制の合理性や行政改革の脈絡で見ると、意外なほどすっきりする。自治体の数はどんどん減らして、都道府県などの中間の広域自治体もなくして、「全国三〇〇自治体への再編」(小沢一郎)で国が直轄した方がコントロールが容易であるからだ。また自治体にばらまいている補助金や地方交付税など予算の規模を縮小するにも都合がいい。

 もちろん現に大きい街に住んでいて、大宮・浦和のように百万を越えなくては気が済まないという人もいるだろう。まあそこまでいくとこれは生活スタイルというか、ある種好みの問題でもあって何も言うつもりはない。上から押しつけられるのは気に入らないが、こんなことをきっかけに自分たちの街を考えるのであれば、それでそれなりの意味があると思うのだ。大きいことがいいことなのか、答えがあらかじめあるのではない。要はそこに住む人が、いかなる街を選択するかという問題だ。だが、とりあえず私の心情としては「スモールイズビユーティフル」と思っている。



論議なき意志決定の怪

  こんなふうに考えながら、いきなり法定協議会発足という課題を議会で突きつけられて、反論しなければと気負った私は、三日間徹夜で「反対討論」を書き上げ、約八〇〇〇字二五分に及ぶ大演説をやってのけた。その結果ある保守系の議員は眠り込んで採決に立ち上がらず、なんと「反対」に一票を投じたのであった。これこそ演説の力?という笑話なのだが、「何だ興味ねーのかよ」という感じなのだ。この問題が起きてから、こうしたとまどいを至るところで感じている。

 「大丈夫、そんなに簡単に合併なんかできないよ」。これは合併を進める側の議員の口ぐせだ。法定協議会がこうなって、こうなってるからすぐに合併になっちゃうけど、それでもいいのか。アンタんとこの商店なんて、周辺部の過疎に置かれて、すたれちゃうだけじゃないか。キミのところなんて回る予算はなくなるよといった具合にまくし立てると、必ずこういう反応が返ってくる。こいつは不可解。今もって大きな謎なのである。

 各議会はすでに合併協議会設置で議決しているのに、表向きには、まだ「白紙」(三芳)だの「広域連合で」(大井)だのというのである。合併そのものは、住民発議で始まったのだが、そのときの署名運動は「合併について協議するのだから」署名して欲しいという趣旨だった。賛成でもなく反対でもなく是非を検討することで協議会は発足した。ところが各首長、助役、正副議長のほか学識経験者を交え三〇数名で構成される協議会は、「メリットデメリットを出し合って、デメリットを回避するという方向で検討したい」。要するに合併の障害を取り除いて、メリットが活かされるような「推進」の協議を行いながら、「中立」の議論だと言うのである。

 議会や市民集会などの開かれた場では、だれも積極的に合併推進論は展開しない。にもかかわらず合併の既成事実だけが進んでいる。まちづくりのビジョンがいくつか示されて、公の場で合併の効用が議論されることを市民は期待しているのに、どうにもそういう方向に話は向かわない。



どこで議論しているのか

  どこで議論しているかというと、二市二町与党議員連盟なるものが「二〇一〇年までの合併を決議している」といっている。その勉強会には自治省の役人や県の職員もやってきて、懇切丁寧に説得する。私などにはお声もかからないから、そこでどんな話がされているのか知りようがない。密室で協議が進行していくことの気味悪さを感じるのだ。パブリックな公の場で「公論」が形成されていくのではなく、あらかじめ周到な多数派工作が先行しているのだ。

 国政では密室でコトが決められたり、情報が操作されるクレムリン並の首相の交代劇に批判が集中しているが、同じことは地方自治についても言える。本紙前号のインタビューで保坂展人氏はそれを帝国憲法下のカニの甲羅にたとえていた。そういう前時代的遺物の合意形成の方法というか、私も自分の街でそういうものを目の当たりにしている気がする。こういうときどうしたらいいと思います? 真っ向から挑む以外ないでしょう。「ちゃんと議論しろ」とか「住民投票で決着しろ」とかね。