2006年01月01日

地方分権シリーズ・「少子化対策」を考える

地方分権シリーズ・「少子化対策」を考える


子供を生むかどうか、生むことのできる女性に

選択権があるのはいうまでもないが、

合成特殊出生率が1.39(九七年)と低迷する原因の一つに、

生み育てることが困難な社会であると

いう点も確認しておくべきだろう。



「保育園は足りない」のである。決定的に足りないのだ。
 働く女性なら、大半の人が子供が生まれたら保育園に預けよう、と考えるだろう。ところが、保育園を選択するのは、社会的にはまだまだ少数者なのである。

 わが市の例で説明しよう。

 いま、年間だいたい五百人の子供がうまれる。これに対して公立保育園で〇才児保育の定員枠は十二人しかない。この四月に、団地の立て替えにともない新しい保育園がオープンして、やっと定員枠は倍になる。そのほかは無認可の「家庭保育室」等が七十人を吸収される。すると約四百人が残る勘定だ。うまれる子どもの八割は保育園を利用しないか利用できない。三才児以上になると、私立幼稚園利用者が七割、残りを無認可保育園と公立保育園でわけている。

 これをどう評価するか。

 生涯勤めに出ない専業主婦というのは都市部に限っても二割に満たないそうである。実際のところ、子供が小さいうちは働かないという選択をする人が大半だということになる。この人たちは保育を必要としないのだろうか。私にはそうは思えない。教育費が高騰する中学生以上の親の世代になると、就業人口は飛躍的に拡大することをみても分かるように、こどもを預けやすい、育てやすい環境になれば、保育園はもっと多くの利用者が使うようになる。

 もちろん女性の就業人口は年を追うごとに拡大しているから、保育への要望は高くなる一方である。保育園へ入る順番をまっている待機児童数も全国的に増えている。

 しかしうまれる子どもがみんな保育を望んだら、圧倒的に施設は足りない。しかも基準の厳しい公立に入れず、無認可の保育園に預ければ、保育料は公立の二倍から三倍に跳ね上がる。つまり、「安心して子供を生み育てる社会」という標語に見合うほどのサービスは到底望めないのが実情なのである。

 すでに少子化対策の経験を積んでいる北欧を例にとると、「一歳以上の子どもに保育を保証する」という国会決議があるぐらいだから、保育をだれもが必要とする社会的な事業と考えて取り組むことに雲泥の差があることはお分かりいただけるだろう。

 もともと「児童福祉法第二十四条」には、「保育に欠ける」児童については市町村が「措置」すると定義されていた。この背景には、保育は家庭でやるという大前提があったのである。家庭で保育ができない場合、一種の行政処分として、つまり生活保護などと同一の措置として「保育」は考えられていた。だから、家庭で「保育ができる」と考えている人は保育園を利用しなかったし、どこの役所でも保育園の係は、高飛車で評判悪く、市民の足は遠のいていたのである。

 ところが九八年四月から施行された改正児童福祉法では、この措置の部分が、「保育に欠ける」児童の「保護者から申し込みがあった時は・・保育しなければならない」に改められた。ようするに特別の事情で行政が保育するのではなく、親の要請に応えられるものにせよ、というニュアンスに書き換えられた。これで出生率が上がるかどうかは別問題だが、ここでもまた保育という閉ざされていた分野が社会に開かれたのである。


エンゼルプランっていうんだぜ
 これは地方分権との関連ではどういうことになるだろう。

 九十年代中頃に、福祉の基礎構造改革に着手した政府は、高齢者福祉のゴールドプラン、障害者プランに加え「子育て支援策」としてのエンゼルプランを打ち出すことになる。これを福祉三大プランというのだが、いずれの場合も地方自治体に独自計画のプランニングを義務付けた。これらは機関委任事務からはずされ、より地域的特性を優先せようという主旨が含まれたから、地方分権の先取り的な政策となった。また四月に施行される分権一括法で、無認可保育園の指導監督業務が市町村に移ってくるなど、児童福祉の領域で自治体の果たさなければならない役割が増大した。

 すでに述べてきたように、今の保育環境は「安心して生み育てる」社会には余りにも程遠い。加えてこれまでの貧民救済的な「措置」制度のもとでの保育=児童福祉は、ごく一部の人(わが市の場合産まれる子供のうち五百分の十二人)を救済するようにしか作られていないので、社会的、潜在的な福祉の需要に対応することはとてもできない。

 それでも少子化対策としてそれなりに有効な保育政策をすすめようとすると、独自財源には限界があるので、やはり「民営化」という方式を選択することになる。

 民営化といっても、保育の場合、保育士の登用など資格用件は厳格だから、すぐさまどこかの株式会社が経営に乗り出すというわけではない。厚生省が打ち出しているのは、従来の認可保育園の設置基準を大幅に緩和したり、特定福祉法人以外の事業者の参入も認めるといった程度のことである。もちろんPFI法で、公的に作った施設を民間業者が経営するということも今後おこりうる。

 すでに文部省管轄の幼稚園や学校法人が保育園経営に乗り出したり、北九州市や鎌倉市ではいち早く公立保育園の民営化計画を打ち出して波紋を広げているから、関心のある人は自分の住んでいる地域にアンテナを伸ばしておくべきだろう。

 常勤者ではない人への一時保育や、夜八時、あるいは深夜までの延長保育、その他駅前保育や二十四時間型保育所、さらに子育て支援センターなど、自治体もサービス内容を多彩化する。上福岡市の場合、家庭保育室と公立保育園の公私の費用格差是正処置も今度の予算案に盛り込まれた。このように行政区によって子育て支援への力の入れ具合の違いはけっこう見えやすいものになる。


  
保育園は民営化してはならないか
 昨年十二月二〇日の朝日新聞「論壇」に「保育施策は公的な枠組みで」と主張する投稿があった。投稿は「営利を追求する考え方と子供の福祉が両立しうるか」と、市場化を認めることは、企業の「コスト削減、利潤の追求」に子供を投げ出すことではないかというのである。介護保険でも同質の議論が多かったが、これらの主張は旧来の社会福祉法人や、保育運動の中心にあった革新勢力に根強い見解といえる。

 ここで断っておきたいのだが、行政の中には、保育の社会化という議論を故意にねじ曲げて、現にある保育施設を行革つまり経費節減のターゲットにして「民営化」を図るなどというのが出てくるが、こういうのは論外なのである。もしそういう自治体があれば、そんなことは絶対に認めてはならない。

 そうではなくて、北欧型の高福祉を理想として、要するに福祉政策は国や自治体が公的に実現すべきだという考え方ならば、それは検討に値する。北欧型の高福祉社会を選択肢から取り除くべきだとは私も思わない。

 しかし、現にある保育園の経費を減らし、浮いてくる経費で、多くの保育需要に応えていくというのならどうだろうか。単なる経費削減策と区別する難しさが残るが、幾多の事業者に参入の機会を与えることで、多様な市民ニーズに対応するという路が開ける可能性がある。

 また民間の資本が参入し、市場経済的な経営になると子どもの利益を損なうというのは本当だろうか。市場に委ねることには確かに危険もあるが、私たちはそれを制御し、監督し統轄する知恵も学ぶべきではないのか。保育であればコスト削減のために人員を減らすという選択ではなく、子供の豊かな育成といったサービスの質のために企業が努力するよう工夫をすることもできるはずである。

 そのためには費用対効果の透明性が必要である。サービスの提供にはそれに見合う費用がかかり、自己負担と公的負担の比率がどうなっているかはっきりすべきだ。それを市民が参加して監督するという機関も作らねばならない。その上で利用者がサービスを「選ん」だり、第三者に苦情処理を依頼するという枠組みを作る。しかしこういう情報公開やサービスの透明性の確保は、現在の公的制度の方が作りにくいのである。


子供達の空間に環境基準を
 さて、話を上福岡市に戻すことになるが、いま、私たちは新しい保育園の建設に際して、保育園や児童福祉行政に対する市民的関与というか、監督の大切さを改めて痛感することになった。

 ことの起こりは昨年九月、議会の一般質問で私は「新設保育園の建材について」をとりあげたことにはじまる。新建材にホルムアルデヒドなど有害物質がどのくらい含まれているかを調査し、よるシックハウスを回避しようとしたのである。答弁で都市整備部長は「みなさんの家庭で使われているものですから、心配ありません」と答えた。十二月になって私の所属する「常任委員会」(議員は必ず○○委員会に所属する)が建材調査に同意した。年明けにおこなわれた調査で、保育園に使われる合板、パーチクルボードの大部分がホルムアルデヒド含有であり、玄関から廊下、各保育室にいたるまで、大部分が合板でおおわれていることが分かったのだ。

 建築建材は、すでに予算措置の終わっているものでもあり、使われているものも規格品であるから、建設をただちにとめるほどの力は私にはない。せいぜい、開園前にホルムアルデヒドなどの調査をし、建設省が定めている指導基準〇.〇八PPMを上回った場合には開園の延期などの対処をおこなうことを約束させた程度である。

 御承知のように、この指導基準は甚だしく甘い。有害化学物質の影響で子供達が過敏症やアトピーになれば取り返しがつかない。乳幼児の施設にこんなものを使うなんていうのはもってのほかなのだ。

 ということで、着々と工事の進む保育園を毎日のように見据えながら、その調査の成りゆきに身構えているところなのである。(第三回終了)