2006年01月01日

「ダイオキシン類対策特別措置法」施行

「ダイオキシン類対策特別措置法」施行


1 渋木幸子インタビュー
若者が立ち上がってくれたこと。それがいちばんうれしかった。


 こんにちは。久しぶりにくぬぎ山にきてみると、いろいろと思い出があります。とくに、渋木さんと出会ったことが、僕がくぬぎ山に係わる大きな転機になりました。
 
 私も鈴木さんとの出会いを鮮烈に覚えています。女の人ばっかりの集まりで、男の人が一人、大きな目で私のことをにらんでいたでしょ。あなたがきて、それからたくさんの人がくぬぎ山に来るようになりました。
 
 あれから四年、事態は劇的といえるほどに変化しましたね。
 
 息子がね、お母さんはなにもしていないっていうのですよ。みんな周りの人がやってくれただけじゃないかってね。

 忘れられないのは、ダイオキシンの検査が一体八〇万円といわれたときに、摂南大の宮田先生が一三箇所、研究費で落としますといって検査をしてくれたこと。それでダイオキシン汚染が発覚しました。

 それからマスコミの力、今では小学生だってダイオキシンという言葉を知っているでしょう。当時の県の職員も味方になってくれる人がいました。「住民の方の痛みは、私の痛みです」と言って協力してくれたのです。

 すぐに飛ばされてしまいましたけれど。

 それでも本当にうれしかったのは、草の根の力が全国に私たちのことを広めてくれたことです。特に、あの11.8、若者が立ち上がって所沢をパレードした時です。ああこれで本当にダイオキシンに勝てると思ったんです。ほら、私の名刺にね、年表があるのですが、ちゃんと11,8、そして池袋の緊急パレードのことが書いてあるでしょう。

 それで日本にはなかったダイオキシンに対する規制がはじめて生まれていった。

 これは本当に画期的なことでした。
 
 くぬぎ山に大きな変化はありますか。
 
 渡り鳥がね、くぬぎ山にたくさん帰ってきているのです。先ほどカッコウの声が聞こえたでしょう。蜘蛛の巣も戻っています。九三年から九五年にかけて失われていたものが戻ってきているのです。

 淑徳大学のTくんは8回も通ってきました。最初きたときは地獄だと思ったそうです。でも今は「こんなにきれいになるとは思わなかった」といっています。淑徳大のすぐそばにあった産廃は廃止されました。周りの人はとっても喜んでいます。

 この近くの農家の頑固親父に「渋木さん、畑で深呼吸ができるよ」と言われました。「空気がきれいになったよ」って。

 最初野焼きを発見して、たまらずに告発を始めた頃は、この地に住んで二〇年間仲良くしてきた農家の人たちに「騒ぐな」と言われてずっとつらい思いをしてきたのです。「少しぐらいの灰が降ったって、肥料になるんだよ」農家の人たちはそういっていました。ダイオキシンが発覚する前の四年間に、一四回もです、車のタイヤに釘を刺されたのです。今はもうありません。農家の人たちとのつきあいも元に戻りつつあります。

 産廃業者たちも変わりました。アーバンリサイクルは、工場長が辞めてしまって閉鎖になりました。日榮もクマクラもちゃんと挨拶するようになり改善されてきています。変わらないところもありますよ。石坂産業は、テレビカメラで市民の動きを常時監視しています。
 
 渋木さんにとってこの一〇年というのは、どういう時間だったのですか。
 
 地獄ですよ。最悪です。
 
 楽しかったんじゃないのですか?
 とんでもない。九一年に告発をはじめて、九三年に県の指導で小型焼却炉が導入されたときに、私は世も末だと思って、本気で引っ越しを考えて、家を探したのです。でも私が好きなこういう山の中は全国どこに行ってもゴミとダイオキシンにまみれているでしょう。だからどこへ逃げても同じだから、ここでがんばるしかないと思ってとどまったのです。

 私は都会を離れてわざわざこういうところに住むほどだから、人間嫌い、ちっとも社交的ではないのです。自分の世界に閉じこもって、歌と音楽を聴き、絵を眺めて優雅に暮らしていたのです。この庭でバーベキューをして、ハンモックに寝ころんで喜んでいるそういう人間だったのです。だからここに訪れる人に、これはえごの花でとか、キノコがたくさんできてとか話をすると「そんな話を聞きに来たのではない」と随分怒られました。

 それでも、今では全国から、引きも切らずに相談がやってきます。最近では、荏原の工場からの汚染が発覚した藤沢市からも、去年は松江市の宍道湖で工場の電気集塵機を洗っていたところシジミが全滅したという話があって、電話が来ました。相模原からも、杉並病と闘っている人たちとも交流しています。
 
 杉並病と言えば、くぬぎ山の焼却施設も、燃やすのをやめて、中間処理に変わっていくものがあるそうですね。
 
 そうなんです。廃プラスチックを圧縮するRDFはとっても怖いです。プラスチック類を圧縮するときに可塑剤がでてしまうのです。宮田教授によれば、可塑剤を使わないプラスチックというのは殆どないのだそうですね。
 杉並病では、中枢神経をやられて皆まっすぐ歩けないようになってしまいます。今は、これらを研究している学者のみなさんと連携しながら対策を考えているところです。
 
 くぬぎ山のこれから、ということでは、渋木さんはどんなことを考えていらっしゃいますか。
 
 私がこの地に魅せられて住み始めたのは、この雑木林がすばらしいからです。ここが人工林だということはみなさんご存じでしょう。300年以上前に、川越藩主の柳沢吉保が命じて、地割りをし、植林をして、その原型のままに残っているこの武蔵野の自然はとても大切なものです。お金がほしい農家の人は、売って出ていくことを考えているけれど、この落ち葉で堆肥を作り、有機農業を成功させているすばらしい人もいます。長男坊なんかはだめですが、お婿さんで、本気になって農業経営を考えている人はちゃんとやれています。

 煙や灰がひどかった時期には私も作るのをやめていましたけれど、私の庭でたくさんの杏が採れるのです。これでジャムを作ります。今年はたくさんできるでしょう。またこの地はキノコの宝庫です。シメジ、杏子タケ、ベニドクタケ、毒タケという名前だけれど食べられるのご存じでしょう。それからアミタケ、紫シメジ。etc。

 このすばらしい地を守っていくこと。保全のためにやれることをやっていく。そんなふうに考えています。

 この土地の300年の歴史に対して、私は「新参者」でしたけれど、縁があってそこの多福寺にお墓を買ったんです。だからいまは「新参者」と言われたら、「私、多福寺にお墓がありますので・・」というのです(笑)。
 
 それはいいですね。ずいぶん変わったということなのですね。
今日はありがとうございました。



3 インタビューを終えて
 梅雨の晴れ間の蒸し暑い午後にくぬぎ山を訪ねたが、雑木林をくぐり抜けるとひんやりとした風がとても心地よかった。しかし、かつての産廃施設は殆どがここに居座ったままだ。時折、プラスチックを焦げ付かせたいやなにおいが漂ってきて、問題は未解決なままであることを知らしめる。

 包囲の輪は狭まってきている。くぬぎ山に限っていえば、渋木さんの言うように、人工林の保全に関して埼玉県も前向きではあるようだ。ダイオキシン類規制法もできた。しかし、曖昧さは残されたままである。量は減ったとはいえ、産廃を満載したダンプは次々と運ばれてくる。埼玉県に流入する産廃の総量に変化はない。曖昧な法規制を実効あるものにしていく、住民の監視が欠かせない。


4コラム「循環型社会基本法と拡大生産者責任(EPR)」
 解散前の国会で成立した「循環型社会形成推進基本法」を中軸に、ゴミリサイクル関連法が成立したが、これに研究者から批判が集中している。

 明治学院大の熊本一規氏によれば、政府はこの法律は拡大生産者責任を実施しているとしているが、それは誤りだと指摘する。拡大生産者責任(EPR=Extended Producer resposibility)とは、OECD報告書では「消費後の段階で、生産者が廃棄物に対して負う責任を指す」ことにほかならない。そのばあい責任とは、誰が物理的に処理することではなく、「処理の費用を負担する」ことだと明記されているという。

 ところが、日本の循環型社会基本法では、廃棄物処理に必要な費用を、国、自治体、事業者と市民の「四者が公平かつ適正に」分割するとされた。これでは廃棄物の処理費を生産者に負担させ、製品価格に上乗せさせることで、価格向上をおそれる企業が、設計段階から廃棄物を出さないようにするインセンティブが働かなくなってしまう。これではEPRに逆行しているばかりか、ゴミ処理の方向を決定的に誤らせるものだ、という。

 この基本法をもとに、建築廃材を始め、ゴミやリサイクルの法規が作られたが、これが有効に機能するためには本来の意味での費用負担の「公平かつ適正」な配分、つまり生産者責任をより明確にしていくための、住民の運動が問われていくことになりそうだ。