2006年01月01日

白神山地

白神山地へ

鈴木 啓太郎


 広大なブナの原生林で世界遺産にまで登録された白神山地には、その中心を流れる赤石川と、追良瀬川という二つの大きな清流がある。

 私はこの夏、追良瀬川を旅をすることができた。わずか三日間、行程19キロ、標高差900?。の旅だったが、ダブついた腹まわりが気になる中年オヤジには、久々に充実した時間だった。



7月16日 
  朝8時30分に、自宅の電話が鳴った。

 「もしもし、鈴木啓太郎さんですね・・」。やや訛のある声が電話口でひびく。「深浦の森林管理センターですが・・」えっ、なんだ?とまどうまもなく事務的なことばがつづいた。「入山許可については平成16年より申請のみで、許可証は発行しませんので・・」そうだった。そんな話も聞いていた。迂闊にも私は往復はがきで白神山地への入山許可証を求める手続きをとってしまっていたのだ。

 相手の声は質問に変わる。「こちらははじめてですか?」「はい」。「標識等は一切ありませんがご承知ですか?」「はい」。「登山の経験はお持ちですね?」「まあ、それなりに」。「現地の天候は雨です。では気をつけて」。電話の内容はそれだけだった。

 かの入山許可書には焚き火禁止だのイワナを捕るなだのと書いてあってすこぶる評判が悪いのだが、幸いそんなことに彼はふれず、私の気分を害することもなかった。

 電話を終えてふとわれに返って、「体力には自信がありますね?」と聴かれていたら、なんと答えたのだろうということがアタマをめぐった。川をめぐる旅にそれほどの不安はない。知識や経験は充分にあるつもりだ。問題はただひとつ。それは体力である。三日分の食料と装備を背負って、この渓を歩き通すことがいまの自分にできるのだろうか。

 10年前ならいざ知らず、近頃の体力の衰えは否めない。もちろん日々のトレーニングなんてなにもやっていない。したがって体重だけはどんどん増えた。だぶついた身体に腹まわりの脂肪がずしりと重い。脚力もよわくなった。なにより視力が落ちた。普段かけている遠近両用のめがねでは、石から石へ渡り歩くのがおっくうになる。昼でも暗がりに入ったり、夕闇で光が落ちるとよくコケる。距離がうまくつかめないのである。こればかりは経験しないと分からない。老いてくると、私も若いときには想像がつかないことが起きるのである。

 白神にいくということが決まってから、密かに私は追良瀬川下流でアユを釣ることを考えていたのだ。どちらかといえばアユで有名なのは赤石川で、「金アユ」と呼ばれて珍重されているが、赤石川にダムができて、白神周辺の伐採があって、水質はがくんと落ちた。当然アユの質も落ちた。ところが追良瀬川は河口付近の集落以降人家がなく、大きなダムもない。マニアの間では「プラチナアユ」といって近年の注目株なのである。ところが問い合わせると、今年はアユの遡上が少なく、時期的にも早過ぎるという。いまきてもムダですよ、と観光担当の職員は素っ気ない。アユを釣るならさほどの体力はいらないが、釣れないと分かっていていくのもばかげている。

 そうかそれならば、白神コアエリアへの遡行をめざすしかないか、と気持ちを切り替えた。K君に電話して同行を頼むと「まあいいよ」という返事である。「行って損になる場所じゃないよ、保障するから」。説得したつもりで大急ぎで2人の入山申請を書き、速達で発送した。しかし前々日になってK君は仕事だからやっぱりいけないという。あちこち電話したが、だれもいっしょには行きそうにない。まいいか、またもや単独行だ。

 装備を極限まで軽量化し、食料も米とそばを主食に最小限に絞る。河原の歩きが中心となるので池袋の秀山荘で新品の渓流ブーツを買い、テント代わりにするモンベルのツエルト用フライシート、それからエアマットも新調して準備を整えたのである。不足したのは、2万5千分の一の地形図が全コース分手に入らなかったことくらいだろうか。

 かくして私は出発の日を迎えるのだが、白神山地が世界遺産になって、登山者などは立ち入りができないと思っている人も多いようだから、ここで白神山地の自然保護運動の経緯について若干ふれておこう。

 白神山地を縦断する青秋林道(全長29,6キロ、32億円)が、反対運動に寄って行き詰まりを見せた1989年、林野庁はこの地を新たにもうけた「森林生態系保護地域」と指定した。翌年青秋林道の建設予定線をふくむ中心部が原則として人の手を加えない「保存地区」となったため、林道計画は正式に中止が決まった。

 この森林生態系保護地区はユネスコの提唱するMAB(Man and Biosphere)の考え方が参考にされたという。MABでは厳正に保存されるべき「核心地域」のまわりに「緩衝地域」をおき、第一次参業の利用はこのまわりで行うというものである。白神は93年12月に世界遺産登録が認められるが、森林生態系保護地域の範囲がほとんどそのまま世界遺産地域となり、核心地域、緩衝地域も踏襲されることになる。

 詳しくは述べないが、この森林生態系保護地域指定は、それまで林道建設や原生林伐採を繰り返してきた林野庁が180度転換して、生態系保全を名目に「原則入山禁止」という処置にふみきるお題目となった。自然保護を訴えてきた運動の中には、行政側の恫喝との受けとめもあるほどだ。自然を保護せよというのなら認めよう、その代わり一切の入山を禁止する、というのである。

 世界遺産登録とともに、秋田県側はこの処置を踏襲した。「核心地域」の原則入山禁止である。おかしなことに、特別の許可証をもっていたり、ガイド付きであったり、学術研究との名目がつくものは良しとされる。つまりこういうことだ。行政がこいつは入っていい、こいつは悪いと判断するのである。入山禁止の法的根拠は希薄だから、この分類も恣意的としかいいようがない。

 これに対して青森県側は、入山を許可制にした。「指定27ルート」というあまり登山の実体にそぐわないルートならば、申請すれば許可証を発行していた。平成16年からは、許可証もなくなったのは冒頭紹介したとおりである。

 私が思うに自然保護の混乱に輪をかけたのは、環境NGOなど一部の自然保護団体を自称するものたちが行政のお先棒を担いで「入山禁止」に唱和したことである。これに対して、青秋林道反対運動の中心であった根深誠氏をはじめ地元の登山や沢登り愛好家たちは猛然と反発した。

 人が徒歩で立ち入ることで生態系にいかほどの悪影響があるというのだろう。あまりにも過剰な人員が殺到すれば、規制は必要になるかもしれない。こうした点について、基本的データーを収集したり、全般的な調査ができるのは行政である。情報を公開し、実像を周知して、オーバーユースにいたらない方法を、研究者や利用者の意見を採り入れつつ決めるのが行政の本来の役割ではないのか。

 白神はけして観光地ではない。気軽にこれる場所ではないのだ。観光的施設などつくらずに、既存の林道を封鎖して、徒歩以外に近づく手段をなくしてしまえば、なお効果的なはずである。

 前置きばかり長くて恐縮だが、実は私にはもう一ついいたいことがある。行政側はこの地域での焚き火や動植物の捕獲、端的に言えば山菜やイワナをとることを禁止しているが、私には異論がある。これについてはたぶん議論にもなり、批判を受けることもあるだろう。だが、制限はあり得ても禁止は間違いだというのが私の考えである。焚き火を起こし、山菜やイワナを捕りながら旅をするのは、この地で生きてきたマタギをはじめ、もっとも合理的で野趣あふれる自然の利用法である。私にとっては息子に伝えたい野遊びの第一候補といってもいい。白神は元来、そんな川の旅を愛する人たちの憧憬の地であったのだ。

 だからこそ、というべきだろうか。白神山地は私としてもぜひとも踏破しておかねばならないエリアなのであった。そんなわけで、大急ぎで準備したこの夏の白神山行がはじまったのである。



7月17日

  私の住む埼玉県上福岡市から、高速道路を経て、白神に到着するのにおよそ8時間ほどだったろうか。道が日本海側に近づくと激しい雨が続いていた。

 午前6時に同じ車で交替しながら運転してきてくれた小川夫妻と白神ラインの追良瀬大橋に立つ。しかしここから見える追良瀬川は完全な濁流。泥水が轟々と音を立てている。「こりゃだめだ」あきらめるしかないかなと思いながら、とりあえずこの日白神山に登るという人たちの集合場所までいったん退却する。

 少し雨が小振りになったので、もういちど追良瀬大橋に引き返したのが午前9時半。私には水かさが増しているように見えたが、このまま帰るのもつまらない。暗門の滝方向に行くという小川さんに、行ってムリだと思えたら引き返してくるから、帰りに12時までここで待っていてほしいとお願いして出発することにした。

 堰堤までの林道を歩き、まき道を通って河原に降りると、ごうごうという流れがさらに勢いを増しているようだ。茶色に濁って底が見えない。ここから屈曲点ごとに徒渉をくり返しながら進むのだが、歩き出して1時間半程度の淵で進退が窮まった。渡ろうにもすぐ下の落ち込みに吸い込まれそうで渡れない。辺つりのできる限界まで淵をたどり、泳いで渡るしかないようだ。ザイルの端をリュックに結んで、しばし流れを見る。「これを越えたら帰れないな」。そうおもいつつも思い切り岩を蹴って水流に乗り出す。対岸に泳ぎ渡り、ザイルをたぐってリュックを引き寄せた。思いのほかスイスイといけたので、ここで気持ちもしゃんとした。

 いくつか先の淵で、濁流に立つ私の足元を黒いものがゆっくりと動いた。イワナだ。追良瀬川特有の、白い斑点がくっきりと見えた。つぎの淵では、変なカモが浮きながらこちらを見ている。「これがうわさのシノリガモかな」と思いながら、雨を気にしつつカメラを出して写真を撮る。カモの動きはコミカルだ。距離を詰めるツツっと逃げる。離れるとまたよってくる。じつはこのシノリガモ、本流を遡行中は至る所で見かけた。というより、見られていた。人なつこくずーとついてくる感じがした。

 小さなゴルジュがあって、水量が多くどうにも乗り越せないので、左岸のまき道をたどる。懸垂で水際に降りると、後続の3人パーティーがゴルジュの向こう側に見えた。こんな天気じゃ誰もいないと思っていたが、他人がいたのでなんだかほっとする。

 二の沢が合流する直前に適当な河原があったので、野営の準備をしていると、先を越さ

れたと思っていた3人がやってきた。付近の台地でテントを設営していたのに、私が気づかず追い越してしまっていたようだ。彼らは釣り竿をもってすぐ上の淵に陣取った。このころになるといったん雨も止み濁流も薄らいで、ブルーの色合いが強くなった。その薄らいだ濁りの淵に粘ったまま、3?。以上もの底へ仕掛けを沈め、彼らは次々とイワナを釣り上げる。

 近年の私はテンカラと呼ばれる和式毛針による釣法にこっていて、こちらは歩きながら毛針をふるう。ポイントからポイントへ、水面に落ちる羽虫に飛びつく食い気のある魚だけをかけていくので合理的でスピーディだ。他人の餌釣りを見るのはひさしぶりだったが、こちらものんびりしていいもんだなと感心する。

 それにしてもなんという魚影の濃さよ。きっと多くの人が釣りを試みるだろうテント場の付近で優に尺越えのイワナが次々とかかる。魚影の濃さは、建前上の禁漁のせいではない。やはりイワナは森と水が育てるのだ。

 私もご相伴に預かって、イワナをあぶる焚き火を起こす。

 いつも思うのだが、焚き火は一つの儀式である。流木を集め、適当な大きさに切り分け、小枝から順に火種に添える。いったん燃え上がれば少しの雨なら平気だし、覆いをすれば本降りでもしのげる。つづいて米をとぎ、火にかけて、湯を沸かす。根曲がり竹の串に刺したイワナも程良く仕上がる。ご飯と納豆だけの粗末な食事も、イワナでぐっと豪華になる。ほんとうなら焼き枯らして、イワナ酒といきたいところだが、徹夜で運転してきた今日はもうその元気はないようだ。シュラフカバーに潜り込み、そのまま寝入ってしまう。



7月18日

  夜中に激しく雨が降る。なにか身体に異変を感じて目が覚めるのだが、節々の痛みとともに、猛烈なかゆみとも痛みともつかない感覚がおそってきた。時計を見ると午前2時半である。最初はよく分からないのだが、目覚めてくると異変の正体がはっきりしてきた。顔と手足から猛烈なかゆみを感じるのだ。そんなはずはない。顔は防虫ネットで覆い、シュラフカバーにすっぽりと治まっている。しかし起きて点検してみると、防虫ネットが肌に触れる頬骨の部分がぶっくりと腫れている。手首足首から先の露出部分がやられて腫れ上がっている。

 ヤブ蚊かブユか分からないが、ものすごい攻撃を受けたようだ。きっと防虫ネットのまわりに、つまり私の顔のまわりに、雲霞のごとく群がっていたのだ。そのうちの何匹かが、わずかな隙間からシュラフの中に潜り込んで血を吸ったのだ。なんともおそろしい。それにしても、かゆくて目が覚めるなんて最悪だ。あまりのかゆみにもう寝ることもできない。
 幸い雨も止んだので、焚き火に点火し、お茶を飲んで夜明けをまつ。朝は、夕べの残りご飯でお茶漬けだ。

 タープをたたみパッキングをしても、食われて腫れた手に力が入らない。フェルトの靴下に足をねじ込み、渓流シューズを重ねる。夕べ見たよりは水かさが増した冷たい流れに踏み込むと、腫れた足も少しは気持ちがいい。午前6時少し前によたよたと歩き始める。
 それでも昨日よりは水量が減っているのだろうか、ゴルジュもさしたる困難はない。まき道も快適だ。すぐに落差20?。の滝をかけて五郎三郎の沢が落ちてくる。本流は平坦で平凡だがゆったりしていいところだ。川底の色が赤くなったり、青くなったり、岩盤が美しい。
 周囲を見渡してもブナはまばら、ミズナラ、サワグルミなどが判別できる。水はとうとうと河原いっぱいに流れ、ひっきりなしにイワナが走る。こんな平坦な場所で林道などが近くにない河はそうはないだろう。確かにこれが自然の原初の姿で、かろうじて守られている森なんだろうなと思う。

 イワナに遊んでもらいながらのんびりと歩いていると、ウズラ石沢の出会いについた。沢側の高台に登って昼食。そばを流れに浸し、たれにつけて食べる。誤って少しだがそばを流れにもっていかれ淵に吸い込まれる。しばらくすると、コバルトブルーと白泡の交じり合う淵でなにかがうごめく。イワナだ。でかい。40センチを越えるようなのが二匹、三匹と群雄ししきりに反転する。流れたそばを食ってるのか。近づいても逃げない。夢中で写真を撮るが、流れの底にいる魚はうまく写せそうにない。

 そうこうしているうちに昨日の後続3人パーティがやってきた。彼らはこのままサカサ川に行くという。サカサ川は追良瀬流域でもっとも美しいとネットで見ていたので、うらやましく思う。残念ながら小川さんとの待ち合わせは、明日の4時に白神登山道入り口である。ここで彼らを見送る。つかず離れず見かけたシノリガモともお別れだ。「オッサンきおつけていけよ」という声がする。

 ウズラ石沢を登り始めるとようやく普通の沢に入ったという感じがするが、どこか奥秩父の沢のようで、苔むした様子が美しい。高度を増すにつれて、ブナの群生帯が現れてきた。これが白神かとは思うが、沢を歩いて見える範囲なら、どこにでもある普通の沢のようだ。

 午後4時近くになって、小さな野営スペースを見つける。ホントはもう5分も歩けばもっと快適な場所があったのだが、もう身体はぐたぐた。やっとタープを張り、寝床をつくる。対岸を見上げると、みごとなブナがこちらを見下ろしている。流木を探しに出かけるのだが、どうにも適当なものがない。湿り気が強く、流れの中で半ば腐ってしまったような薪ばかりだ。

 今日も儀式のように焚き火を始めるが、何度やってもうまくいかない。火種にもっていた着火ジェルも使い果たしてしまう。おまけにといだ米をひっくり返して、ぶちまけてしまった。

 がっくりと落ち込んだが、気を取り直して、ヘッドランプをつけ、暗がりの中を小枝から拾い直していく。トイレットペーパーでこよりをつくり、ライターで点火し、小枝から少しずつ太い幹に点火していく。どうしてこうまでこだわって焚き火をするのか、なにか無駄なことをやってるなという気もするが、火が起きるとやはり気分は落ち着く。生きていける感じがする。私はこの原初の森でたったひとり、火をおこすという原始的な手法で命をつないでいる。ライターは使ったけれどね。

 残った米を炊き、湯を沸かし、イワナをあぶる。持ってきた酒もここで全部飲んでしまう。身体の節々がきしみ、虫さされで腫れ上がった顔と手足のことを忘れてしまえば、いまは至福のときだ。幸い今夜はヤブ蚊もおそってこない。ゆっくりと酔い、渓底から雲の切れ間に星を見て眠る。



7月19日

  朝はゆっくりと起きた。パッキングをすませ、出発する。ここから先は枝沢が多く道に迷いやすいらしい。吉川栄一氏のガイドによれば、「完璧な読図、沈着なルートファインディング、野性的方向感覚、神仏のお導きがそろえば」(山と渓谷社)藪こぎなしで白神山頂へ至れるのだそうだ。

 そうかと思って一生懸命読図をして、ある二股を右へルートをとったのだが、どうもこれが違っていて、滝を越えていくうちにいくらなんでもこれは違うと思って引き返すことになる。疲れ切った身体で、引き返す判断をするのはつらい。これに2時間を費やした。
 もう一カ所、今度は左に折れて間違ったが、これはすぐに行き止まりになるので分かる。テープや布の目印も石積みのケルンも、鉈目すら見あたらないが、よく見ると石の上のコケがふまれてすれているので、焦らなければ、そんなに間違うほどではない。これはいまだからいえることで、実際は不安でいっぱいだったのだが、ともかくよたよたと滝を越えていく。徐々に徐々に高度を稼ぎ、見上げると稜線へ突き上げているルンゼがくっきりとみえたので、これで大丈夫とほっとする。このあたりはもうブナはなく、根曲がり竹やイタドリなどが群生する。いつのまにかその熊笹のトンネルにはいると、5分もしないうちに塩ビ管から水が流れている光景に出くわした。うんっ?ああこれが山頂近くの水場かとわかるまで間があった。

 山頂をふむがガスで周囲はなにも見えない。

 避難小屋は昼食をとる人でにぎわっていた。

 下山路にはいると雨が激しく降ってきた。

 沢用のフェルトブーツで泥の道を何度もコケながら下っていくと、ちょうど3時間で登山道入り口についた。小川夫妻はとうにやってきていて、車を止めて待っていてくれた。



通風 悟空の緊箍呪(きんこじゅ)

通風 悟空の緊箍呪(きんこじゅ)
鈴木 啓太郎


 通風とつきあい始めて10年にもなるが、ここ2ヶ月の間ほどひどい目にあったことはない。通風の発作時の痛みといえば尋常ではない。万力で足の親指の根本を締め付けるような激痛が突如としておそってくる。


 はじめての発作を経験したときは、なにがおきたのか理解するのに時間がかかって、4日間は激痛に苦しんだ。5年後に次の発作が起きたときは、救急病院に行き、薬を処方されて事なきを得た。3年後の発作は欧州旅行中だったのでちょっと大変だったが、向こうの医者は手慣れたもので、注射と薬の処方で一日ホテルで休んだだけで痛みは止まった。

 それから2年後の今夏7月、右足の先に違和感を覚えて「アレ、変だな」と思ったら、痛みがじんじんとやってくる。2年前の薬、C薬とV薬が残っていたので、とりあえず、それを飲んだら、少しは腫れたが痛みはそれほどでもなく治まって行く気配。そこで懇意にしている町医者に行き、新しい薬をもらったが、ここからが新たな悲劇の始まりだった。

 この新しい薬では、発作が治まるどころか緩慢に腫れ上がり、痛みもどんどん増してしまうのだ。仕方なく、残っていたC薬を飲むと、一気に効いてくる感じがする。ちなみにC薬は痛風発作時の特効薬とされるが、副作用が強く、常用されることはない。特にひどい下痢がやってくる。すさまじい下痢がやってくると、痛みも治まるなんともいえない薬なのだ。

 ただ今回は、痛みが治まって一安心というわけにはいかなかった。しばらくすると今度は左足に痛みを感じた。これは初めての体験である。医者へ行って、C薬とD薬がほしいというと、なんとウチには無いという。仕方がないので少し大きな病院に行って同じ薬を求めると「そんなふるい薬は今時使わない」といういわれ方だ。では、その医院の処方する薬を飲んでみる。やはり効かない。今度は左足にあの締め付ける痛みが戻ってきた。もう一度町医者に行き、処方箋だけ書いてもらって、やっと薬局で薬を受け取ることができた。薬を飲み、痛みに耐えて、下痢がくると、一安心だ。

 ただしこの薬の処方は15錠までである。早ければ4日間でなくなる。めんどくさいが週に一度は診察を受け、薬を受け取って飲み続けねばならない。そこで夏休みを前に早めに医者に行き、処方箋を書いておいてもらった。休日を挟んでいたので、すぐに薬局に行かなかったのが災いした。処方箋の期日が4日間しか有効ではないなどという知識はこのときまで、私には無かったのだ。薬局に出向いたときはすでに5日目だった。この処方は使えませんといわれて不安がよぎったが、病院は休診中。それでも痛みが治まっていたので「っま、いいか」と思ったのが運の尽き。ストックしてあったC薬を一日1粒ずつ飲んで、それがきれてから、5日目の、またもや土曜日の午後のことだ。「きた」とおもったが、もう遅い。救急病院に行くという手もあるのだが、またまた検査の一からやり直しというのも煩わしい。何とか月曜までもってくれと祈ったが、痛みのピークは月曜の朝にやってきた。激痛の足を引きずって、医者へ行き、処方箋を書いてもらい、薬局へ行き、薬を飲んで、効いてくるまでの数時間、激痛にのたうち回ることになった。最悪なことにこの日は9月定例議会の初日。市長の演説などまったく耳に入ら無いなどというのはどうでもいいが、サンダル履きで(痛みで靴が履けないのだ)議席で苦痛にゆがむ私の痛風話は役所中に知れ渡り、病気とはいえ、なんとなく惨めな気分になった。

 この痛みがやってくると、思い出すのは孫悟空のアタマの金の輪のはなし。三蔵法師が緊箍呪というまじまいを唱えると、きりきりと締め付けるというやつだ。あの話、きっと痛風に違いないと私は信じている。悟空を締め上げるのも、元々は悟空のなかに要因があってのこと、という話はみなさん御存知だろうか。その点は痛風も同じ。体内の尿酸が蓄積して発作を引き起こすのだが、だれもがもってる尿酸が暴れ出すのは、どこかに、私の行いを戒めようと呪文を唱えているやつがいるからなのだ。悔しいがこの痛みにはどうにも勝てない。「お師匠様、なんでも言うことをききます。どうかご勘弁を」と私も思わず叫んでしまう。

シックハウスをゲット マイホーム「5月危機」

シックハウスをゲット マイホーム「5月危機」

鈴木 啓太郎


 「シックハウス症候群だっていうの!」電話の向こうで妻が絶句した。シックハウスという言葉を知っていたのは妻の方である。不覚にも私は事態をなかなか察知することができなかった。ただ私たちが住むことになったマンションの一室の、リフォームに使った新建材に原因があるのではないかと、そのとき私は旅行先から妻に電話で告げたのだった。ようやく妻と私の考えが一致したとき、何か憑かれていたものが落ちたような急な安堵感がこみ上げてきたのを覚えている。

 3月のはじめだったと思うが、新聞折り込みの中古マンションの広告を見て、半分冷やかしで電話をかけすぐに物件を見に行くことになった。行ってみるとなかなかいいところだったので、値切れるだけ値切って、こんな私でも安いローンが組めるなら買ってもいいかなあと思っていたら、思いどおりにことが運び、いままでのアパートの家賃よりも月々の出費は安くなることも分かったので、思い切って買うことにしてしまった。家を買うなんて人生にそう何度もないはずのことだが、見に行ってから決めるまでわずか2週間足らずの即断だった。そこで、どうせなら自分好みにリフォームをしようと思い立って、頭金を払った以外のなけなしの貯金をそこにつぎ込むことにした。

 本当なら、自然保護運動で知り合っていた近所の大工さんにリフォームを頼みたかった。しかし、仕事の都合で5月の半ばまで工事は無理だという。連休中には引っ越しを済ませたかったのと、もう一ヶ月分、アパートの家賃を払うのはもったいないと思ったのだ。

 そこで不動産屋に紹介された業者にリフォームをまかせることにした。私の関心は建材にどういうものが使われるのかというより、業者がちゃんとした仕事をするか、騒音で近所に迷惑をかけないかとかのほうにあった。いまから考えると、うかつだったとしかいいようがないのだが、早く引っ越してしまいたい、そういう思いの方が強くて細かいことにこだわりたくなかったのである。

 工事が終わったのが、4月27日。28日から荷物を運んで、29日にアパートを引き払い、連休中に片づけを終えた。彼女の両親も手伝いにきてくれ、近所の人も手伝ってくれてすべては順調に進んだかに見えた。

 コトは2才になる娘から始まった。荷物の運び終わった部屋に娘を連れてきたとたん機嫌が悪くなったのだ。

 近所の人がいくらお愛想をいっても「フン」とそっぽを向いて荷物の間に隠れてしまう。失礼な奴だなーと思っていると、そのうち火がついたように泣き出した。「引っ越しで疲れたんじゃない」「急に大勢人がきたから」。みなさん気遣う言葉を残して早々に引き上げていった。そしてわが家の悲劇はここから始まったのである。

 娘は夜になって熱をだした。翌日病院へ。「軽い喘息」というのがその日の診断だった。「季節の変わり目ですから、こじらせないように外の風に当てないでください。連休の間も家にいて閉め切っているように」。

 後にこれが決定的な誤りであることが判明するのだが、この指示は固く守られた。そして、薬を与えても安静をつづけても、娘の症状は悪化するいっぽうだった。そのうち妻も異常を訴えだした。私もなんだかのどが痛い。連休中やるはずだった片づけもこうなるとすすめるわけにはいかない。彼女の両親も予定を変更して引き上げるという。順調に進んでいた引っ越しも急速に歯車の回転が合わなくなっていった。

 両親が帰ると今度は妻が怒りだした。引っ越し時の私の彼女の両親に対する態度が悪かったという。このときの心境をどのように表現したらいいだろう。

 のどがひりひりと痛み、目には霞がかかったような印象だ。照明の暗い片づかない部屋のなかで娘と妻が臥せっている。そして口々に私のことをののしるのだ。どこかおかしい。こんなはずじゃなかった。貧しくても幸せなマイホームのはずだったのだ。

 そう、こんなときは逃げるに限るのである。予定していたことではあったのだが、私はそそくさと旅行に出かけた。

 家を出て2日ほどしたとき、のどの痛みが消え気分が急速にやわらいだ。このときやっと事態に気がついたのだ。リフォームした家に原因があるのではと。そうとしか考えられない。すぐに妻に電話をかけ、冒頭の話につながる。

 「そこにいたらダメだ。すぐに避難しよう。窓も開け放って換気しなくちゃダメだ。子どもは両親にしばらく預けよう」。

 実家に避難した妻と娘も、家を離れると急速に見事に体調を回復した。何よりもこうした体験というか体感が、私たちがシックハウス症候群であったことを教えていた。

 この後、県の消費者センターに調査を依頼し、原因物質の追及をはじめたが、フロア材をリフォームした部屋から基準より多少多めのホルムアルデヒドが検出された。フロア材はJIS規格でいうF2で、やはり相当のホルムアルデヒドを含んでいるのは間違いなかった。しかしそれ以外には、建材の成分や材料から「ク口」となるようなものは見つけられなかった。何があれほど人を攻撃的にしたり、イラつかせたりするのだろう。

 2週間ほどの避難生活の後娘は家に戻った。窓を開け放ち、24時間換気をしながら暮らすこと、活性炭を部屋におき、マイナスイオンの発生源を配置したこと、リフォームしなかった部屋を中心に寝起きすることで、今のところ私たちは無事に暮らしている。しかし、いまなお消え去ったわけではないホルムアルデヒドなどの化学物質が、今後私たち家族の健康にどんな作用をもたらすか、それはまだ分からない。

空路知床のオショロコマを求めて

空路知床のオショロコマを求めて

鈴木 啓太郎


 私たちはアプローチに空路を選んだ。

 少ない休暇の時間に旅行を満喫するには、アプローチの時間を短縮するしかないというのが一番の理由だ。そのかわり、荷物は制約されるので、キャンプで過ごすというわけにはいかない。レンタカーを使い民宿やホテルを転々とするということになり、多少割高になったのが(四泊五日で十二万円を要した)デメリットである。

 それにしても羽田からわずか百分で釧路に到着する魅力は大きい。飛行機が飛び立って、ひと眠りしもしないうちに、あっという間に着陸の体制に入ってしまう。

 八〇〇〇メートル上空の小さな窓から見える青空が、分厚い雲に変わり、眼下に広大な原野が広がるのが良くわかった。そのどこまでもつづくような原野のなかに小さいけれどきれいな釧路空港がある。羽田の喧噪から比べれば、まるでタイムスリップのような着陸だった。

 今回の旅の目的はもちろんワークショップに参加するためだが、それ以外は自由時間だ。そこで、まず釧路川をカヌーで下ること、羅臼岳に登ること、そして何よりも知床半島のオショロコマを釣り上げることを私たちはテーマにした。

 カヌーによる川下りは、自前のものを使ったのではなく、ガイドつきのまるで遊覧船の旅のようだったので、「一応釧路川を下ってみた」という以上の感動は得られなかった。釧路川など北海道の河川はゆったりと蛇行しながら流れるヨーロッパ型のチョークストリームが多く、危険個所が少なく、初心者がカヌーで下るにはうってつけともいえる。私たちが出発点にしていた塘路湖のキャンプ場にはたくさんのカヌーイストたちがいて、家族で川下りを楽しんでる人も多かった。湿原のなかを好きなように漕ぎ出せたら格別だろう。まあこれは、次の楽しみにとっておこう。

 さて、ここではとくにオショロコマについて記しておこう。オショロコマは道東を中心に北海道にしか生息しないイワナの一種である。もう一種のアメマス系イワナは降海型で大型になるが、こちらは余り大きくならない。ヨーロッパには同種のものがいて英名ドリー・バーデン、その色鮮やかな美しさが多くのアングラーをひきよせている。

 今回私たちは、ヒグマの生息地である知床の沢筋にお邪魔して、このオショロコマを釣り上げようと企てたのだ。パーティの面々と身支度を整え、おそるおそる沢を遡行しはじめた。水は死ぬほど冷たく、気温も上がらない。時折雨もぱらつく。沢のなかは暗く、谷は深い。「ぴー・ぴー!」と思いっきり笛を鳴らしながらすすむ。ヒグマが恐いからである。

 まず、Sさんの竿が大きくしなった。最初の一尾。赤い斑点が確かに美しい。顔つきが優しく幼い感じがする。ここからはまったくの「入れ食い」状態になった。次々とヒット。大きめでおいしそうな奴だけをキープし、後は流れに返す。そういえば、地元の人にポイントを聞いたとき「そんなものはどこにでもいるよ」という態度だった。入漁証もいらないし、漁業権も設定されていない。要するに、地元では大して価値はないということらしい。あんまり簡単に釣れるのでこちらも少し興ざめしてくる。

 やがて二段四〇メートル程の滝が現れた。手元の気圧式高度計では標高六〇〇メートルほどの地点である。その大きな滝壷を覗くと、なんとオショロコマが群をなして泳いでいる。流れ落ちる滝に向かって放射線状に整列し、まるで隊列を整えているように泳いでいるのだ。時折エサを見つけるのかはげしく水面をたたくものもいる。こんな情景は、話に聞いたことはあるが、見るのは私も初めてである。

 フライをとばすと、勢い良く飛びついた。四番ロッドがしなり、キョトンとして何が起きたかわかってないようなイワナがついてきた。同じ毛針では二三回で見破られるのか飛びつかなくなるが、フライを変えれば、何度やっても同じ。際限なく釣れてくるようだ。

 「もうやめよう」。気がついたら昼近くだったが、もう充分に堪能したという気持ちになった。ここはイワナの楽園で、ヒグマの聖域なのだ。私たちはそこにきて、豊かな自然のなかの悠久のときの流れと美しさとを楽しませてもらった。

 また、今回の旅では、たくさんの野鳥に出会えた。釧路ではみられなかった丹頂鶴は、野付半島に二組のつがいがいた。すさまじいアオサギの群。ウミネコ。アジサシ。観光地を避けて人のいない水辺にいけばどこにでもたくさんの鳥に出会えた。沢筋でもキジを久々に間近に見た。次の楽しみは次の機会にとっておくことにしよう。晴れ上がった女満別空港上空で、私たちは道東の景色に別れを告げた。

論文合併問題「なんか狐につままれたような」

論文合併問題 「なんか狐につままれたような」

上福岡市議会議員  鈴木 啓太郎
2003.12.28

 10月26日おこなわれた住民投票の結果、上福岡市を含む富士見市、大井町、三芳町の2市2町合併はご破算となった。住民投票の直前まで、合併は半ば既成事実でそうなるものとだれもが信じていたから、世紀の大逆転がおきた。

 得票結果は別表をご覧頂きたいが、反対が賛成を上回ったのは大井町と三芳町で、このうち得票率50%以上で有効という条件をクリアした三芳町で反対が確定した。2市2町のうち一つでも反対となれば、合併は成立せず白紙に戻る。かくして合併協議会発足から3年7ヶ月、総費用はたぶん2億円は費やしたであろうわが町の合併話はあっけなく終わった。

 この間私たちは合併反対派として行動した。10月9日の告示直前に上福岡市では「合併反対市民キャンペーン」を立ち上げて街頭行動をおこない、またこれに先立って、2市2町の住民ネットワークで「市民がつくる街づくりプラン」というのをひと夏かけて仕上げ合併協議会の「新市建設計画」に対抗した。これらのアクションがそれなりの影響力を行使したことは、参加しただれもが実感したことである。だが、起きていた事態は実に多様な姿を見せていた。


平成の大合併ってなんだ

 そもそも、いま全国をにぎわせている「平成の大合併」が、地方交付税の削減など要するに地方への財政支出の削減をすすめたい財務省と、これに地方分権だとか合併の推進といった「地方の努力」をくっつけて財源確保をはかる総務省の駆け引きのなかに成立している話だというのはご承知のところだろう。

 悪名高い合併特例債は、合併を決めた自治体に優先的に振り分ける貸付制度で、利子を除く元金の7割を20年かけて地方交付税で「手当」できるおまけまで付いている。国の財政が苦しいから地方のリストラをすすめるとしながら、退職金の水増しと有利な貸付までおこなうのもヘンだと思うが、これもリストラのためと総務省は財務省を説き伏せてしまっている。

 一方の自治体は期限を切られ、いまでなければ有利な財源は保障しないといわれると、先行きの不安から飛びつきたくなるものだ。加えて地方制調では「1万人以下自治体」への交付税削減だとか、自治体としての権限の剥奪という話まで飛びだした。だから、各自治体がとにもかくにも合併をしておいた方が「得」であると考えるだけの条件は整っていた。


合併モラルハザードの形相

 しかしこのような「不純」な動機にまつわる合併だから、クサイ話も多くなる。わが町の合併の場合、合併特例債は580億円計上され、協議会は特例債を含め総額800億円を超える「新市建設計画」を打ち上げた。だが、どの事業にいくらおカネをかけるのかついに明らかにできなかった。その細部まで発表すると首長同士の争いが起きて収拾がつかないのだと担当者はぼやいていた。

 すると各市町は、「この事業は特例債で実現する」などの空手形の乱発を始めた。なかには長らくお蔵入りになっていた大型公共事業までもが復活し、事業費の総計では予算額の倍でも足らないことになってしまった。
 そればかりではない。

 各種基金(自治体の貯金のようなもの)を条例を変えて取り崩して、計画途上の道路だとか建物だとかを既成事実とするために駆け込みで事業化することに血眼になったのだ。わが上福岡市も富士見市もこの不況下でバブル期をしのぐ空前の大型予算が計上され、特に土木費の比率が群を抜いて高くなった。俗に言う「合併モラルハザード」の典型的な現象が起きていた。

 こうなると疑心暗鬼がうまれるのは世の常だ。人口の少ない町部は、合併後の主導権争いで不利になるのは分かっている。合併後の市長選挙で勝つのはほとんど100%人口の多い自治体の首長である。幹部職員の数も議員数も人口比率に正比例する。

 当初はこれに配慮して市役所は新市でもはずれにある三芳町役場に置くとか、記念公園をつくるとかを取り決めた。ところが住民投票が近づくと雲行きは怪しくなった。住民投票での誘導のためか、市役所はまちの中心に持ってくるだの、公園はできないだの、本音が飛び交い始めたのだ。いったい何のための合併なのか、なにを目的にしているのか、こうなるとだれにも分からなくなってしまった。むき出しの利害と損得勘定だけが先行して政治は大義を見失ってしまったのだ。


「与党」議員連盟の分裂

 目的が不純であれば手法もそれに準ずるものだ。合併は青年会議所が音頭をとって住民発議をおこない、議会多数派がそれを支えるはずだった。実際、2市2町の「与党」でつくる合併与党議員連盟という怪しげな組織がいつの間にか生まれて(というのも私にはオファーもなかったから知らないのである)、合併推進を固く誓ってきたのだった。議会の勢力比では圧倒的多数であったから、合併の成立をだれもが疑わなかったが、その分だけ合意形成は密室性を強め、かわりに住民への説得力は乏しくなった。

 合併協議会は協議会とは名ばかりで、事務当局の案件をほとんど質疑もなく3年7ヶ月にわたって追認し続けた。新市は市民参加型のまちをめざすはずで、ワークショップとかも開かれたが、そこで合併は前提であり、その是非を論じるのは御法度にされた。重要なことはいつの間にか首長間の合意で決まり、議論の中身が外に漏れるということはなかった。しかしその密室性故にか、不信感ばかりが募って結果的には与党議員連盟は分裂して「合併推進議員連盟」と名を変えた。そのうちに首長同士の喧嘩が始まって、最後は修復不可能な感情むき出しの対立になってしまった。


住民投票がまちの未来を決めた

 この過程で、私などが議会での議論を試みてもむなしいばかりだった。市長は合併協が決めることだといって逃げ、反対したいならどうぞおやりなさいととりあわない。それならばということで、私は合併反対派になることになった。もともと賛成も反対もあったわけではないが、多数派に安住して沈黙するのは流儀にあわない。たとえ合併が動かずとも、少しでも異論を唱えて論点を提示することが自分の役割と自覚したからだった。

 ただ私たちは住民投票の実施を求めていった。合併がいわば「上から」押しつけられた性格をもつときに、これを覆せるのは住民投票をおいてなかったのである。逆の意味で、議会や「有力者」たちが反対でも、住民投票の結果でねじ伏せることも可能となる。たぶん、こうしたいろんな意味合いが交差して、住民投票は実施されることになった。

 三芳町で得票率が50%を越えたという報が伝わったとき、合併推進派は万歳をしたと報道関係者が教えてくれた。彼らは最後の瞬間まで勝利を疑わなかったのである。しかしその予想を超えて反対票は投じられた。この結果、2市2町合併協議会は解散が決まった。いまは責任のなすり合いだけが始まっている。
(03年11月)


住民投票の結果

富士見市 上福岡市 大井町 三芳町
投票率 40.48% 43.54% 47.20% 51.53%
賛成 23.021 11.063 7.774 6.181
反対 9.972 7.961 8.893 8.334

合併協議会の設置に反対する

合併協議会の設置に反対する
上福岡市議会議員 鈴木啓太郎


市長は合併推進の理由を明らかにせず、
公開の場で論じ合うことを拒絶している
 上福岡市、富士見市、大井町、三芳町2市2町に提案された合併協議会の設置請求は、法定署名数など手続き上の合法性要件を満たしているとはいえ、何故に合併協議会設置が必要なのかという根本的な理由を明らかにしていない。
 また議会に付議するにあたり「意見を付けなければならない」武藤市長もわずかに「賛成します」という5文字をそこに添付しただけで、やはり合併協議会を求める理由について言及しようとしない。

 わが市の合併に連なる重大問題を議決するにあたって、その理由、主張の正当性の論証は当然の義務であるが、提案者も、また提案を受け入れた市長も内容にはふれず、議会という公開の場において論じ合うことを拒絶するのはいったいどうしたことか。
 このような態度は、今後も市民に開かれた議論など到底期待することができないことを示唆しており、「合併の是非を論ずる」という合併協議会の建て前をはなはだしく疑わしきものにしている。

 
2市2町の合併は、ふじみ野駅周辺開発の
受け皿自治体づくりとして計画された経緯を持つ
 だが明確に語られなくとも、2市2町合併が計画されてきた歴史的な経緯ははっきりしている。

いうまでもなくそれは、ふじみ野駅周辺の開発事業の受け皿となる自治体の形成というコンセプトにほかならない。
こうした点で、わが2市2町の合併策は、埼玉新都心の受け皿づくりの浦和、大宮、与野合併計画や、湾岸開発プロジェクトを中心に据えて那珂港市、勝田市の合併したひたちなか市となんら変わることがない。

 ただし、計画当初とは様々な意味での条件の変化が生まれた。首長の変更や政治地図の変化以外にもっとも大きく計画の変更を迫ったのはバブルの崩壊であろう。これにより、巨大開発事業が一時的に沈静化せざるを得なくなったのはご承知のとおりである。だがふじみの駅が開通し、東上線急行が止まり、大きなマンション群がそれなりに活況を示してきたこんにち、合併開発策は、あらたな装いをもってわれわれの前に姿を現すことになった。

 それがすなわち「平成の大合併」といわれる「地方分権受け皿論」「行財政改革=市町村合併論」の装いを身につけたあらたな合併論の台頭にほかならない。これらは東入間青年会議所が提案する「みよし野田園都市構想」として、いまわれわれに、合併協議会の設置を迫ろうとしているのである。

新しい街が生まれることを歓迎すべきか
 ところで、このような合併すなわち大開発といった議論の展開は、いささかステレオタイプに属するものであり、常軌を逸していると思われるかも知れない。各自治体の自主的な合併の促進は地方分権推進委員会の奨励するところであり、上福岡が新しい街に生まれ変わるためにも合併は大切なプロセスではないか、というように。

 だがここに大きな陥穽がある。

 わが2市2町の合併は、地方分権の推進とは似て非なる別物であり、合併は上福岡の基礎自治体としての発展に僅かにも寄与しない。

特例債など合併で得られる財政は、開発事業に振り向けられ、
上福岡など周辺部には予算は回らない
 もし、万が一この合併が実現するならば、国や県から充当される特例債は、ことごとくふじみ野駅周辺の開発事業に投じられ、その巨大で空虚な中心街に比して、打ち捨てられた周辺部がそれを取り囲むという街が出現するにちがいない。
そればかりか、その巨大債務によって、バブル以後も開発中心政策をつづけた自治体が、大阪府や東京都と歩んだのと同じように、泥沼のような財政危機に落ち込むのは避けられないだろうと推察する。

 この結果、わがまちづくりのマスタープランや3次総はもちろん、北野大原地区の再開発などといった地域からたちあげてきた議論は水泡に帰するのであり、福祉や環境といった今日的な施策は大幅に後退することが懸念される。

 さて、これらの議論は、単なるキメツケであり、極論にすぎないのだろうか。

合併協議会は「自主的に合併を望む」
住民の意思を確認する手続きを必要としない
 本請求にある合併協議会は「合併の是非をも含めて議論する機関であるから、その中身はこれから検討されるのだ」と思われるむきがあるかも知れない。
そこで本論においては、合併特例法に基づく、協議会設置請求の合法性に対し疑義を振り向けていくことにする。
すでに法制上成立している特例法の合法性を問題にするのは、あくまで法制上の不備を指摘した上で、その問題点は何かということを共有しておきたいがためである。

 まず第1に指摘したいことは、95年の法改正で導入された住民発議制度は、通常地方自治法の範囲では条例改正をもとめる直接請求に適用されるにすぎない50分の1の有権者署名で発議を可能としており、自治体の存立にかかわる問題への発議としては甚だしく条件が緩い。

 憲法95条では、一つの団体のみに適用される特別法は「住民の投票によって過半数の同意を得る」ことを規定し、あるいは改正地方自治法76条「議会の解散請求」などリコール条項では、有権者総数3分の1以上の署名と投票による過半数以上の同意によって解散解職が確定する。

自治体合併は「自主的で自立的な」合併の促進を前提にしており、かつ相互の議会議決を前提にすることで、このような処置が取られているのであるが、このことはごく一部の住民の意思によって、合併が合意されかねない法制上の問題を表しているのである。
言い換えれば、市民生活を大きく変える合併問題を協議するにあたって、われわれは住民の意思を確認する手法を、通常選挙以外は持ち得ないということになる。

したがって、これらの欠陥を補い合併の是非を決する際には、しかるべく住民投票など住民総意の確認をおこなうべきであり、その後に禍根を残さないためにもこれらは必要不可欠な手続きとみなさねばならない。

合併自治体には協議会で合意された
まちづくりビジョンを遵守する義務がない
ためにバラ色のまちづくりを約束し、後で反古にすることが可能である
 第2の問題は、合併協議会後に生まれる「新」合併自治体には、協議会で合意される建設計画の遵守義務がないことである。特例法によれば、合併市町村は、議会の議決を得れば、建設計画をいかようにも変更することができるとされる。

ところで、合併協議における「建設計画」は、新しい自治体のビジョンとなるべきものであって、合併を合意するに不可欠でありながら、それを遵守しなくても良いということになり、合併協議会の信頼性を極めて疑わしくしている。

 繰り返すが、特例法では合併に際し少数の署名提出で発議され、住民の総意を確認する方法は確立されていない。さらに、かりに各議会が合意しても、新しい自治体議会は合意した建設計画を容易に変更しうるのである。

合併推進論は積極的な推進論を必要としない
 このような法制上の問題点が、協議会の性格を危ういものにする。
すなわち、強力で積極的な議会内少数者の反対論を別にすれば、住民の側には積極的な盛り上がりは必要とせず、消極的賛同ないし無関心が合併協議を容易にしかねない。

最近東入間青年会議所が発行したビラによれば、武藤市長をのぞく首長の意向は、
「時代の趨勢」(富士見市荻原市長)
「前向きに捉えたい」(大井町島田町長)
「前向きに考えていきたい」(三芳町林町長)
という驚くべき消極的態度である。

そこでわれわれが懸念するのは、拙速に合併協議が進行し、充分な詰めがなされず、安易な妥結に踏み込んでいくことであり、特例債による財政措置にのみ目を奪われ、これまでの各自治体の政策立案を台無しにしかねないという問題である。

地方分権・分権自治体づくりと2市2町の合併を混同して論じてはならない
 確かに、地方分権推進委員会の第2次勧告などにおいて自主的合併や広域行政への取り組みが奨励され、合併特例法改正に際し住民発議制度や過疎地域活性特例措置の規定拡大が盛り込まれた。

 しかしここで問題とされるのは、全国自治体の6割を占める人口で八千人を下回る自治体で、かつ過疎化による人口減が加速度的に進行している地域である。

 このような地域においては人口減少が財政規模をいちじるしく低下させ、職員数も減少するなど行政執行能力の低下も避けがたい。もちろんこのような小規模な自治体でも、自主的で自立的なまちづくりを推進し、人口減少をくい止め、産業的発展を実現しているところは全国にたくさん存在している。
このため、合併計画の存在しない空白地が18の道府県に及んでおり、必ずしも合併策は全国的に必要とされている施策ではない。

 さらにそうした過疎自治体への救済策としてとられている合併推進策が、上福岡市はじめ2市2町において該当しないのはいうまでもない。わが市は、少子高齢化対策を独自に展開しえないほど脆弱な、自治的能力を欠如した自治体ではない。

適正な自治体の規模という議論は間違っている
 これに対して、日本青年会議所の「全国339自治体への改革」といった自治体再編計画は趣を異にする。これらは、通信交通網の発達、モータリゼーションの普及に踏まえ、日常の生活圏、経済圏が拡大したという認識に立って「適正の人口規模・圏域の半径」なるものを算定し、それに見合わない自治体を合併すべしとする乱暴な主張である。

 これらの出典根拠は以外に古く、1970年の自治省「広域行政圏構想」、同年の建設省「地方生活圏構想」にさかのぼる。この両構想とも、それぞれ10万から40万までの人口規模、半径20~30キロの圏域を「適正」なものと想定する。しかしそれがすなわち、自治体の規模の「適正」を示すのでないのは一見して明らかである。

人口規模の適正な範囲などという構想は
市民の生活感覚に結びつくものではない
 地方分権の時代であるからこそ、自治体にはほんらいの「自己決定・自己責任」が認められるはずで、「それぞれの地域の実情に応じて市町村のあり方を考えることが重要であり」「すべての地域を通じた市町村の適正規模を一律に論ずることは困難であり、市町村の数をあらかじめ定めることは適当ではない」(第25次地方制度調査会答申、98年)と考えるべきで、「適正な人口規模・圏域」などという「上からの」市町村合併は、自主的で自立的な「個性豊かなまちづくり」をめざす地方分権とはまったく別物であり、両者を混同して論じてはならないのである。

特例債は借金がしやすくなるというだけで、いずれ付けは支払わねばならない
市民1人当たりの予算は確実に減額する
 ではさらに、合併特例債による財政的特典についても論じてみよう。

 合併をおこなえば、普通交付税額の算定特例期間の延長をはじめ、合併特例債など、短期中期的には合併による不足を補ってあまりある財政措置が盛り込まれている。財源に不足をかかえる各自治体にとって、これは魅力的な数値であろう。

 だがいかに特典が与えられるとはいえ、これらはほぼ十年間の期限付きの処置で、いくら地方交付税の充当率が高くなるといっても、それは借金がしやすくなったというだけのこと。問題は特例債の使い道となる。これについてはすでにふれたように、新市庁舎やハコもの的施設など、ふじみ野周辺に費やされる可能性がもっとも高く、市民生活が全般的に向上するとはいえない。

 しかも合併によって一時的に膨らんだ財政も、優遇期間が過ぎれば、交付税の減額、補助金のカットなどによって減額されていくのは必至である。また人口20万以上の特例市となるために、あらたに水質汚濁防止法、都市計画法、土地区画整理法など15の法律に基づく19項目の事務が増え経費が増大化するのはいうまでもない。こうした点からも将来的に予算規模が縮小するのは避けられないと思われる。したがって、市民1人当たりに充当する予算額は確実に減額されることになる。

ただ一つの財政メリットは、議員が減ることである
 唯一市民にとって財政メリットが存するといえば、4人の市長、市の幹部、議会議員、市職員の数が減るということである。しかし事務の増大とともに職員は必要になり、議員歳費の増額などでこれが経費としていかほどの削減になるかは大いに疑問としなければならない。
それでも議員が減る方がよいのだといわれれば、われわれは頭を垂れる以外ない。

 しかし、この点は議員諸氏に訴えたいが、議員が減ることを唯一のメリットとする合併に賛同するなどという選択はおのれの存在を低め、辱めるものではないだろうか。市議会議員として市政の発展にかかわってきたと自負する者の矜持にかけて、このような合併策は認めてはならない。

「みよし野田園都市」構想は何が間違っているか
 つぎに住民発議の中心事務局であった「東入間青年会議所」が提案する「みよし野田園都市」構想についてみていく。

 同会議所が発行するパンフレットによれば、「みよし野田園都市」は「農と食が同居するマチ」であり両者を結ぶ「商というコミニケーション」が設定されるなど共感できる部分もあり、また、三富農業の保全や、新河岸川自然公園構想など肯首しうる多くの提案が含まれている。そこで新しいまちづくりをはじめよう、消防、警察、医師会など、これほどの広域行政の既成事実があるのだから、なぜ行政だけが分離するのか、という問いかけには一見説得力があるように見受けられる。

 だが、先にも述べたように、自治体行政の領域には広域事業になじまない数多くの業務が存在する。これらの多くは都市問題としてに派生する社会的弱者の救済という問題である。
弱者は特別な存在ではない。都市生活ではだれもが社会的弱者になりうるからこそ、安全保障を社会的に整備しなければならないのである。

 それは住宅政策、生活道路などの問題でいえば、都市計画や土地利用規制への住民の意見反映、行政サービスに対する住民の苦情処理、地域的ニーズに応じた予算の編成といった事業であり、保健福祉でいえば、介護や医療の住民サービス、ヘルパー派遣や相談業務、小型デイサービスやグループホームのたち上げといった今日的課題である。これらは、きめの細かい現場でのやりとりや実態調査の末具体化されていくのであって、広域的に事業化すればよいとはならない。

きめの細かい、地域からたちあげる事業が必要とされている
 「地域的ニーズ」を政策化し「だれもが安心して心地よく住める」マチにしていくことが福祉の課題に他ならない。福祉の基礎構造改革論議の中で用いられている理念は「個人の自立した生活を総合的に支援するための地域福祉の充実」であり、こうした考え方が介護保険などでめざされているのはいうまでもない。そうであるからこそ、介護保険法は各市町村に独自の策定委員会を設けさせ、その地域的課題と住民ニーズに即した政策立案を義務づけているのである。

 また同パンフレットが「お金があるならば、段差のないマチづくりに着手すべき」など、同会議所が批判するばらまき福祉や、ハコもの福祉とまったく同レベルで福祉的施策を論じているように、いささかも「福祉の本質を捉えていない」ことは明らかであって、同会議所はこうした点をこそ批判的に省みるべきである。

 さらに同パンフが、合併は「大きなビジネスチャンス」などと表しているように、地域の商業的発展という、市民生活総体からみれば、それだけでは一面的な利益の強調に終始しており、このような観点から開示される「みよし野田園都市構想」は社会的弱者に注がれるべき視点を切り捨てた「強者」の観点から、広域行政・合併推進を論じているのであって、これらが到底市民的合意をなしうるものでないのは明らかだと思われる。

以上述べた視点から、2市2町の合併には賛同できず、
よって協議会設置にも賛成することはできない
 自治体合併の経験を持つ富士見市に対し、上福岡、大井、三芳はそれぞれ独自の自治体として発展を遂げた歴史を持つ。これらは埼玉県政の中でも誇るべき歴史であり、合併などという無駄なエネルギーを費やす必要はない。相互に協力し合い、切磋琢磨していくことで良いではないだろうか。拙速な合併策は道を誤るだけである。

 (12月17日上福岡市議会本会議で反対討論時にほぼ全文を朗読。その後、反対8、賛成15-保守系会派・公明-で合併協議会設置に議会が同意を採決した。)

進む市町村合併 広域化は財政危機を救うか

進む市町村合併 広域化は財政危機を救うか


さいたま新都心(大宮、浦和、与野)や静岡清水合併など、各地で市町村合併の動きがさかんに起きている。地方分権化や都市再開発の手段として、各自治体が広域化・人口集中に力を入れているためだ。市町村の拡大で住民の生活や町並みはどう変わるのか。合併をかかえる各地からの意見を聞いた。


町の未来が密室で決められようとしている
――埼玉県上福岡市の場合――
上福岡市議会議員  鈴木 啓太郎

 四月一〇日、大宮市、浦和市、与野市で合併協議会が決定され、さいたま市発足の動きが本格化した。私の住む上福岡市でも、富士見市、大井町、三芳町との合併協議会が発足している。何のための市町村合併なのか。上福岡での論議を取り上げたい。



分権化の受皿というけれど

  私が昨年四月に議員になって、降ってわいたように現れてきた難物がこの問題だ。昨年七月、地方分権一括法で「合併特例法」が改正され、有権者の五〇分の一の住民発議で合併協議会の設置請求ができることが決まり、八月には上福岡周辺でも青年会議所による署名運動が始まった。一〇月には法定署名数が各自治体に提出され、一二月に各議会が合併協議会設置を議決というように、アレヨという間に進んできてしまった。

 浦和などの場合は「さいたま新都心」建設という大開発の受け皿自治体づくりとして計画されてきた。わが二市二町の場合も経緯は同様、東上線に新たにできあがった「ふじみ野」駅周辺開発の受け皿的な位置で計画されてきたのである。バブル崩壊以来、話にそれほどの勢いはつかず、計画立ち消えとすら市民には思えていたのだった。

 ところが少し事情が変わった。地方分権推進委員会は第二次勧告で「市町村合併」の促進を打ち出し、地方分権計画の重要課題として持ち上げた。その追い風を受けて、くすぶっていたはずの「二市二町合併」論議が一気に吹き出してきたのである。

 合併するとなにがいいというのか。「スケールメリットで財政規模が拡大する」「行政サービスが向上する」これが自治省の言い分なのだが、実際のところよくわからない。お隣の大井町の人たちは住所を入間郡から書きはじめるのがいやなので、市に昇格するなら何でもいいと言っている。小さな町に住んでいると大きいまちはよく見えるものだ。ターミナルステーションがあって、ビル街があって、中心部にはスポーツ施設がたくさんある。そんな都会的な街へのあこがれがあるのだろう。

 だから、ここから得られるメリットというのは、こういう話ではないかと私は思っている。自分の住んでる近くに温水プールが欲しいと思う。町が単独で作れば財政負担は大変だが、市町村が集まって作れば財政規模は大きくなり、つまりスケールメリットで「効率的」にできて、サービスが向上するというわけだ。

 しかし運良く近所の人は良かったけど、遠くの人にとってはどうだろう。財政の豊かな隣町のプールに行くのと便利さはたいして変わらなかったりもする。ブランド志向で住む街のグレードを問題にすれば、プールがある自治体の方がいいという人もいるだろう。しかし算数的に考えれば便利な人は少数で、大部分の人が遠くなる。広域自治体の非効率の方こそを、問題にすべきだと私は思う。

 街の機能はスポーツ施設だけではない。山村中心の自治体もあれば、農村も市街地もある。街には年寄りも子供も障害者も暮らしているのである。大切なのは基礎的な自治体にだれもが容易にアクセスできるということではないか。そこにコミュニティが成立しているということも生活には必要だ。自分の住んでいる地域の問題を自分たちで解決できるのは「地方分権」の大事な課題であるはずだ。

 この問題を国家的統制の合理性や行政改革の脈絡で見ると、意外なほどすっきりする。自治体の数はどんどん減らして、都道府県などの中間の広域自治体もなくして、「全国三〇〇自治体への再編」(小沢一郎)で国が直轄した方がコントロールが容易であるからだ。また自治体にばらまいている補助金や地方交付税など予算の規模を縮小するにも都合がいい。

 もちろん現に大きい街に住んでいて、大宮・浦和のように百万を越えなくては気が済まないという人もいるだろう。まあそこまでいくとこれは生活スタイルというか、ある種好みの問題でもあって何も言うつもりはない。上から押しつけられるのは気に入らないが、こんなことをきっかけに自分たちの街を考えるのであれば、それでそれなりの意味があると思うのだ。大きいことがいいことなのか、答えがあらかじめあるのではない。要はそこに住む人が、いかなる街を選択するかという問題だ。だが、とりあえず私の心情としては「スモールイズビユーティフル」と思っている。



論議なき意志決定の怪

  こんなふうに考えながら、いきなり法定協議会発足という課題を議会で突きつけられて、反論しなければと気負った私は、三日間徹夜で「反対討論」を書き上げ、約八〇〇〇字二五分に及ぶ大演説をやってのけた。その結果ある保守系の議員は眠り込んで採決に立ち上がらず、なんと「反対」に一票を投じたのであった。これこそ演説の力?という笑話なのだが、「何だ興味ねーのかよ」という感じなのだ。この問題が起きてから、こうしたとまどいを至るところで感じている。

 「大丈夫、そんなに簡単に合併なんかできないよ」。これは合併を進める側の議員の口ぐせだ。法定協議会がこうなって、こうなってるからすぐに合併になっちゃうけど、それでもいいのか。アンタんとこの商店なんて、周辺部の過疎に置かれて、すたれちゃうだけじゃないか。キミのところなんて回る予算はなくなるよといった具合にまくし立てると、必ずこういう反応が返ってくる。こいつは不可解。今もって大きな謎なのである。

 各議会はすでに合併協議会設置で議決しているのに、表向きには、まだ「白紙」(三芳)だの「広域連合で」(大井)だのというのである。合併そのものは、住民発議で始まったのだが、そのときの署名運動は「合併について協議するのだから」署名して欲しいという趣旨だった。賛成でもなく反対でもなく是非を検討することで協議会は発足した。ところが各首長、助役、正副議長のほか学識経験者を交え三〇数名で構成される協議会は、「メリットデメリットを出し合って、デメリットを回避するという方向で検討したい」。要するに合併の障害を取り除いて、メリットが活かされるような「推進」の協議を行いながら、「中立」の議論だと言うのである。

 議会や市民集会などの開かれた場では、だれも積極的に合併推進論は展開しない。にもかかわらず合併の既成事実だけが進んでいる。まちづくりのビジョンがいくつか示されて、公の場で合併の効用が議論されることを市民は期待しているのに、どうにもそういう方向に話は向かわない。



どこで議論しているのか

  どこで議論しているかというと、二市二町与党議員連盟なるものが「二〇一〇年までの合併を決議している」といっている。その勉強会には自治省の役人や県の職員もやってきて、懇切丁寧に説得する。私などにはお声もかからないから、そこでどんな話がされているのか知りようがない。密室で協議が進行していくことの気味悪さを感じるのだ。パブリックな公の場で「公論」が形成されていくのではなく、あらかじめ周到な多数派工作が先行しているのだ。

 国政では密室でコトが決められたり、情報が操作されるクレムリン並の首相の交代劇に批判が集中しているが、同じことは地方自治についても言える。本紙前号のインタビューで保坂展人氏はそれを帝国憲法下のカニの甲羅にたとえていた。そういう前時代的遺物の合意形成の方法というか、私も自分の街でそういうものを目の当たりにしている気がする。こういうときどうしたらいいと思います? 真っ向から挑む以外ないでしょう。「ちゃんと議論しろ」とか「住民投票で決着しろ」とかね。

地方防災というオルタナ

地方防災というオルタナティブ


 「大規模な防災訓練を実施するよりも、地域ごとの実状にあわせた小規模な地域防災訓練の方が、費用対効果の面でも、実践的訓練としても遙かに有効ではないのか。」


 これは、今年の三月定例議会で、地域防災について質問をおこなった時の文言である。ここでいう「地域防災」という考え方は、かの阪神・淡路大震災の教訓から生まれてきた考え方のひとつである。


 例えば首都圏のベットタウンに当たる市街地で、大規模な地震に見舞われ、同時多発火災や家屋の倒壊が起きたことを想定してみよう。交通が遮断される状況の下で、限られた物資、人員で被害を最小限にくいとめるためには、住民自身が「自分で自分を守る」ための備えをしておくことがなにより有効である。


 さらに災害時の状況によっても、救助のあり方は変わってくる。夜間なら、警察、消防、市職員の配置など初動の救助体制を組むことに遅れが生じる。平日の昼間なら、在住人口は少なく、子供や高齢者が多くなる。こうした状況の変化にあわせて「住民相互の助け合い」を可能なものにしていく、そうした自主防災的な研究やシュミレーションは必要ではないのか。


 こんな問題意識から、今年の1月17日、私の住む地域で地域防災訓練がはじめて実施され私もそれに参加した。


 対象となった地域の人口規模はおよそ約三千人。公民館を中心に三つの町会の範囲から、周辺に居住する市職員、消防団員の集合訓練や、それぞれの役割確認をおこなった。さらに地域の企業や障害者団体などにも参加してもらい、訓練は百八十一名でおこなわれた。


 各町会ごとに集合した住民は、消火訓練、簡易担保づくり、人工呼吸、さらに倒壊家屋からの救助訓練などを受けた。この点が今までと大きく違う点なのだが、防災訓練といえば、従来は警察消防の部隊訓練や指揮系統確認が主な項目であり、住民の参加は避難誘導か、せいぜい家庭での火元確認の方法などに限られていた。実際に目の前で災害が発生して、自分が何かをおこなうという訓練は、参加してみてずっとおもしろかった。


 もちろん集合場所となっている公民館への避難誘導もおこない、一方で住民の安否確認の手法を確認していった。また集合地点ではNTTの「災害伝言ダイヤル」を使ったシュミレーションもおこなわれた。折しも関東地方は小雨から雪に変わる悪天候の日であったので、訓練は臨場感もあり、参加した住民からも大変好評を得たのである。
 質問の話に戻ろう。


 「費用はどの程度かかったのか」「すべて町会費、消防署それぞれの費用でまかなわれておりますので、市としては費用をかけておりません」。


 「今後同様の訓練を拡大していく計画はあるか」「消防団、消防署の負担を考慮すると一年度内に複数箇所でおこなうことは難しいと思われます」。


 こちらが金がかからず、効果があるのだからもっとやれといっているのに、市としては費用をかけていないけれど、その分消防署の負担になるので、そう何度もはできないとこの答弁者はいいたいのである。うまい逃げ方をするなあ・・。


 ここで冒頭の質問。「大規模訓練(といってもこの場合は2市2町の合同訓練のことなのだが)よりも、地域防災訓練の方が有効で実践的ではないのか」。答えは「比較の対象になりません」「両方が必要だと思われます」といったありきたりのところで、質問は終わってしまった。


 じつはこうした「地域防災」の考え方で「防災」について研究を重ねてきたのは、小さな民間のサークルである。この手のサークルは「保守的」と見られる人が多いので、私が防災を質問に取り上げて驚かれたが、このサークルがやっていることはなかなかユニークなのだ。小学校の校庭を借り、地域の人を誘って、テント生活をする。そこででた問題点を整理し、避難生活に必要なノウハウの蓄積を試みる。いま「防災」と名前を付けると莫大な予算が降りてきて、「防災公園」とか「耐震工事」とかが大流行だが、そんなことに金をかけるより、こうした住民自身のなかに経験と研究を広げた方がよほど有効なはずだと私は信じている。

循環型社会形成推進基本法成立とリサイクルの現実

循環型社会形成推進基本法成立とリサイクルの現実
~ けいたろうの議会だより ~


事業者がリサイクルに向かえない
消費者の関心は高まるか

  四月一日から容器包装リサイクル法の完全施行となった。私の住む上福岡市でもこれまでのビン、カン、ペットボトルなどの分別収集に加えて、プラスチックや紙の容器・包装類までの分別収集が始まった。



どれが「容器包装」?

  一年ぐらい前、議員になって初めて市の担当部と話をしたとき、ごみ処理の係りに着任したばかりの部長は、私の前でたばこの箱を取り出し、セロハンと空き箱と、中の銀紙と吸い殻とを並べて「これを全部分別して、リサイクルするというのですか?」と実現を疑問視していた。「鈴木さんは脱焼却という主張だそうですが、国土の狭い日本で燃やさないごみ処理なんて考えられませんね」といぶかるようにいう。もちろん、全部まとめて焼却処分した方が手っ取り早い。そんなことはわかっている。しかしそれではダイオキシンの発生を抑えきれないというのが、当時起きていた問題だ。

 方針転換は意外に早くやってきた。去年の夏頃には、容器包装リサイクル法の完全実施、廃プラスチックの分別収集に踏み切ることを決めた。これは前年の一二月に始まった厚生省によるダイオキシン規制が、ようやくわが市の担当者にも浸透してきたことをしめしていた。従来のようなアバウトな焼却処理では、ダイオキシン規制ガイドラインをクリアできないことがはっきりし、担当部がごみ問題に対する認識を決定的に変えたのである。エラそうにいわせてもらえば、私たちが消費者団体とともに説得を重ねたことがついに功を奏したのである。

 また、分別の徹底と容器包装リサイクル法の早期完全実施は私の選挙公約の一つだった。国政レベルでの政策化と、それを実現する地方自治体とにはこうしたタイムラグが頻繁に生まれる。その狭間で正当な主張をすれば、議員活動は実に簡単にコトがはこぶというわけである。

 四月から分別の完全実施のためには、遅くとも二月中に市内各地域での説明会を終えなければ間に合わない。大慌てで準備を進めたために、分別の詳しいリストを作るとか、牛乳パックをどうするとか、ティッシュの箱をどうするとか細かい点が詰めきれなかった。不安の中での説明会開始となったが、どこもかしこも地域の集会場始まって以来の空前の超満員となった。これには担当の環境課もびっくりした。市民の関心は予想以上に高かったのである。

 また、この説明会での応答が実におもしろかった。この容器包装リサイクル法でいう「容器包装」とはいったいなんなのか。スーパーで売っている野菜を包むラップは包装だが、同じものでも家庭で冷蔵庫にしまうラップは「包装」に当たらない。費用を負担する当事者が法律上違ってくるために、こんな複雑な事態になる。

 ここでクイズを一つ。クリーニングの袋。弁当の割り箸の袋。書籍の外カバー。CDのケース。このうち「容器包装」にあたるのは一点だが、どれか?。わかった人はエライ。けれどこんな複雑系を背負い込まされる市民にはエライ迷惑な話である。



プラスチックの山

 かくして本年の四月から分別収集が始まったのだが、朝早くから環境課の電話は鳴りっぱなしである。どれが「容器包装」で、どれがそうでないのか。毎日クイズをしなければならない。

 それでも何とか分別をやってみると「容器包装」がいかに多いのか、改めて驚かされる。プラスチック類は重量はともかくカサが断然に大きくなる。「容器」というのは、消費される中身ではなく、運搬されて消費されれば不要となるいわば無用のものだ。それがこんなに多い。いかに私たちの生活が無駄なものに覆われていたのか、実によくわかる。

 これまで当市で行っていた資源回収は月二回である。この態勢のまま四月に突入したが、これではとても間に合わないということになってきた。私のところにも「二週間分もおいておけないよ」といった苦情の電話が相次いだ。ビンや缶の分別収集は月二回で何とかなる。しかし、プラスチックはそうはいかないほど量が多い。これでは「燃えるごみ」の方にみんな突っ込んでしまう。担当課に掛け合うと、直ちに週一回の回収に切り替えるという方針が示され、もう一度回収計画の表づくりからやり直して、七月から実施と切り替えられた。容器包装プラスチックは四月だけで四〇トンという莫大な量になった。収集日が増え、市民に浸透すれば、もっと量は増えていくだろう。

 また四月は風が強い日が多かった。高く積み上げられた廃プラスチックの「容器包装」はいとも簡単に宙を舞う。苦情が殺到して担当課が走り回ったのは笑い話なのだが、これには普段ごみ分別に関わらないオヤジたちにも事態の深刻さを自覚させる効果があった。「何でこんなにプラスチックが多いのだ。何とかしろ」というわけである。

 このようにして分別収集する市民の側に「ごみ減量」への気運が高まるのだが、これがどうにも生産者、メーカーの方に生まれない。ごみの発生抑制に有効なインセンティブが働かないのだ。じつはここに容器包装リサイクル法の最大の問題がある。



作るほど安くなる

  これをペットボトルの例で説明しよう。容器包装リサイクル法で再商品化の義務を負う企業の負担は、じつは「再商品化の見込み量」で決まっている。見込み量は前年度実績で計るから、当然生産量とは大幅に食い違う。昨年の例でいうと、再商品化見込み量は四万六〇〇〇トン、これに対して生産量は四〇万トンぐらいある。だから市町村がいくらがんばって分別収集しても、再商品化のキャパシティが決まっていて、渡す人がいない。このため処理されないペットボトルがうずたかく積まれてしまうのだ。

 しかも企業はペットボトルの再商品化に一トンあたり一〇万強支払う。一本六〇グラムとして六円と計算していい。ところが実際の生産量はその十倍だから、生産量でみると一本あたり〇・六~〇・八円にしかならない。

 これに対して、市町村はいくらかけているか。上福岡市の場合、容器包装リサイクル協会がトン九万五〇〇〇円で処理する費用のうち昨年度は六%を支払った(比率は年度、種別によって異なる)。それだけではない。ペットボトルを圧縮、梱包する費用は市町村が負担する。これがトンあたり四万五〇〇〇円、昨年は約一〇〇トン処理して総額五四六万五〇〇〇円かかっている。これが容器包装リサイクル法による自治体の負担増額分である。このほかさらに分別収集の費用が加わるが、それは一般のごみ処理費の中に埋もれてしまうので分けて計算できない。

 学者などの試算では、処理費用の総額を計算すると地方自治体が負担するのは安くみて一本あたり一八円、企業が負担するのは先のような総生産量で計算して一本あたり〇・六円だという。一八円対〇・六円である。費用負担にこんなに差があっては勝負にならない。ペットボトルは作れば作るほど一本分の処理費用は安くなる。缶やビンより効率がいい。そうくれば発生抑制どころか生産奨励だ。ペットボトルが減らないわけは、便利さや使い勝手だけではないのである。

 ではペットボトル以外の容器包装プラスチック類はどうなっているのだろう。

 構造的には大差がないのだが、上福岡市の場合、容器包装リサイクル協会を通さずに、直接に処理業者に持ち込み、トンあたり三万円の処理費用を払っている。本来「再商品化の義務を負う」企業の負担金はわが市の処理費には含まれない。四〇〇トンの処理を見込んで年間一二〇〇万円の予算となるのだが、これでも協会に持ち込むための圧縮梱包費をかけるよりはずっと安く済んでしまうからおかしなものだ。



新たな再処理方法

  先日、廃プラを持ち込んでいる処理工場を、議員有志で見学させていただいた。元々この会社は、市の焼却灰処分の一部を担っていた会社だった。じつはこの会社に巡り会ったことが、わが市のごみ処理の運命を変えたのである。

 ここではプラスチックを「常圧低温油化」という方法で処理している。詳しくはふれないが触媒に貝殻の炭酸カルシュウムを使い、高カロリーの油を取り出すというユニークな処理を行っていた。どうして廃プラが油になるのか現場で実際に見せられても今ひとつよくわからない。質問すると「何で有機物が何万年もかけて石油になったのか考えてみてください」という答えが返ってきた。屎尿処理から始まった資本金三〇〇万の小さな有限会社なのだが、独自に開発した技術力には相当な自信があるようで、この方法でプラスチックを処理すれば、ダイオキシンは発生しないと胸を張った。

 このほか一般家庭ごみの処理全般にもかなり意欲的で、工場長の語り口にも情熱が感じ取れた。環境問題の追い風を受けて満帆であるのだろうが、いかんせんごみ処理の側の利益は薄い。流通や再生の方が「上だと思って」(工場長の弁)利益を持っていってしまうのである。工場の応接室には、「家庭ごみ商品化フロー」という大きな図が張り出されており、すべてのごみを堆肥、油、塩安、凝集剤に変える工法が構想されていた。まだ実験段階のものがあってすべてが実用化されているわけではない。だが、この図を見て、くだんの担当官がしみじみいった。「この通りやれば、燃やす必要なんかないんですよね」。その通りである。



循環型社会形成推進基本法の概要

 1.形成すべき「循環型社会」の姿を明確に提示
 「循環型社会」とは、
[1]廃棄物等の発生抑制
[2]循環資源の循環的な利用及び
[3]適正な処分が確保されることによって、天然資源の消費を抑制し、環境への負荷ができる限り低減される社会。

2.法の対象となる廃棄物等のうち有用なものを「循環資源」と定義法の対象となる物を有価・無価を問わず「廃棄物等」とし、廃棄物等のうち有用なものを「循環資源」と位置づけ、その循  環的な利用を促進。

3.処理の「優先順位」を初めて法定化
 [1]発生抑制
 [2]再使用
 [3]再生利用
 [4]熱回収
 [5]適正処分との優先順位。

4.国、地方公共団体、事業者及び国民の役割分担を明確化
  循環型社会の形成に向け、国、地方公共団体、事業者及び国民が全体で取り組んでいくため、これらの主体の責務を明確にする。特に、
  [1] 事業者・国民の「排出者責任」を明確化。
  [2] 生産者が、自ら生産する製品等について使用され廃棄物となった後まで一定の責任を負う「拡大生産者責任」の一般原則を確立。

5.政府が「循環型社会形成推進基本計画」を策定
  循環型社会の形成を総合的・計画的に進めるため、政府は「循環型社会形成推進基本計画」を策定。

6.循環型社会の形成のための国の施策を明示
                                
注=同法は容器包装リサイクル法など具体的な政策を定めた個別法を統括するもの

地方分権シリーズ・「少子化対策」を考える

地方分権シリーズ・「少子化対策」を考える


子供を生むかどうか、生むことのできる女性に

選択権があるのはいうまでもないが、

合成特殊出生率が1.39(九七年)と低迷する原因の一つに、

生み育てることが困難な社会であると

いう点も確認しておくべきだろう。



「保育園は足りない」のである。決定的に足りないのだ。
 働く女性なら、大半の人が子供が生まれたら保育園に預けよう、と考えるだろう。ところが、保育園を選択するのは、社会的にはまだまだ少数者なのである。

 わが市の例で説明しよう。

 いま、年間だいたい五百人の子供がうまれる。これに対して公立保育園で〇才児保育の定員枠は十二人しかない。この四月に、団地の立て替えにともない新しい保育園がオープンして、やっと定員枠は倍になる。そのほかは無認可の「家庭保育室」等が七十人を吸収される。すると約四百人が残る勘定だ。うまれる子どもの八割は保育園を利用しないか利用できない。三才児以上になると、私立幼稚園利用者が七割、残りを無認可保育園と公立保育園でわけている。

 これをどう評価するか。

 生涯勤めに出ない専業主婦というのは都市部に限っても二割に満たないそうである。実際のところ、子供が小さいうちは働かないという選択をする人が大半だということになる。この人たちは保育を必要としないのだろうか。私にはそうは思えない。教育費が高騰する中学生以上の親の世代になると、就業人口は飛躍的に拡大することをみても分かるように、こどもを預けやすい、育てやすい環境になれば、保育園はもっと多くの利用者が使うようになる。

 もちろん女性の就業人口は年を追うごとに拡大しているから、保育への要望は高くなる一方である。保育園へ入る順番をまっている待機児童数も全国的に増えている。

 しかしうまれる子どもがみんな保育を望んだら、圧倒的に施設は足りない。しかも基準の厳しい公立に入れず、無認可の保育園に預ければ、保育料は公立の二倍から三倍に跳ね上がる。つまり、「安心して子供を生み育てる社会」という標語に見合うほどのサービスは到底望めないのが実情なのである。

 すでに少子化対策の経験を積んでいる北欧を例にとると、「一歳以上の子どもに保育を保証する」という国会決議があるぐらいだから、保育をだれもが必要とする社会的な事業と考えて取り組むことに雲泥の差があることはお分かりいただけるだろう。

 もともと「児童福祉法第二十四条」には、「保育に欠ける」児童については市町村が「措置」すると定義されていた。この背景には、保育は家庭でやるという大前提があったのである。家庭で保育ができない場合、一種の行政処分として、つまり生活保護などと同一の措置として「保育」は考えられていた。だから、家庭で「保育ができる」と考えている人は保育園を利用しなかったし、どこの役所でも保育園の係は、高飛車で評判悪く、市民の足は遠のいていたのである。

 ところが九八年四月から施行された改正児童福祉法では、この措置の部分が、「保育に欠ける」児童の